第5章:精霊人形の望み

(1)

〔ホブルディの部屋〕

今日は接蝕日だ。

接蝕は今回で4度目になる。

でもあの感覚に、私はまだ慣れないでいた。

 

H:…………。

 

主:じゃあ、始めましょうか。

 

H:僕は。

 

主:?

 

H:僕は人間が大嫌いだった。

 

主:え?

 

H:…こんなこと言うと、君に嫌われちゃうかなって思うけど。

  君には僕の本当の気持ちを知っていて欲しい。

  僕は、人間が大嫌いだった。

 

主:…どうして?

 

H:「どうして?」…ふふっ。

  そんなの、だいたいわかるだろ?

  人形は人間の“玩具”なんだからさ。

  ……………。

 

微笑しながらそう話すルディの眼差しは暗かった。

 

H:………僕は人間が大嫌いだった。

  でも、その大嫌いな人間に求められなくちゃ、僕たち精霊人形は生きられない。

  だから僕は仮面をかぶることにした。

  オーナーに従順で、よく気が利いて、明るくて可愛げがあって。

  いざというときには頼りになる“オーナー自慢の良い人形”という仮面をね。

  ねえ、アストリッド。君、もしかして僕に同情してる?

 

主:え?

 

H:人間に気に入られるために自分を偽らなきゃならなかった哀れな人形…なんてさ。

  ……ふふっ。

  でも、自分で自分を演じるお芝居みたいな生き方を、僕はわりと気に入ってたんだ。

 

…………?

自分を偽って生きるのは、普通はつらいことのはずだわ…。

 

H:僕は人間が期待する“良い人形”を演じることで、人間たちを自分が作り出した虚構の世界に取り込んでいた。つまり、人間社会で僕が僕を演じることは、人形を支配するはずの人間たちを、人形の僕が逆に支配することだったんだ。

  そしてそれは、これまでけっこう上手いこといってたんだよね。

 

そう語るルディは楽しげだったけれど、サファイアを思わせる青い瞳は暗い影を宿したままだった。

 

H:人間たちは僕が演じている“人間の忠実な僕”たる精霊人形ホブルディを、信じて疑わなかった。ううん、それどころか僕を「愛している」と言う人間さえいた。

  僕を愛してる?人形の僕を?それ、本気なワケ?…ははっ。

  …ホント、間抜けなこと言ってるよね、人間は。

  “良い人形”という仮面の下で、僕はいつも人間を軽蔑し、嘲笑っていた。

  人間は人形を自分の思い通りにできる玩具だと考えているけど、本当に玩具にされてるのは人形の僕じゃなくて、人間の方だ…ってね。

 

………………。

これまでルディは、人間とどう関わってきたのだろう…。

 

H:ただね、アストリッド。

  1つだけ「お芝居」じゃ片づけられないことがあった。

  何だかわかる?

 

主:……?

 

H:それは接蝕だよ。

  さっきも言ったように、僕はすべての人間を軽蔑していた。

  でも、軽蔑している存在のお慈悲にすがらなきゃ生きられないなんて…こんな屈辱ないよね。

  接蝕はたしかに僕の器を満たしてくれるけど、そのたびに僕は惨めな気分を味わっていた。

  だから僕は接蝕も大嫌いだった。

 

ルディ…。

 

H:………でも、僕。

  君との接蝕は嫌いじゃないよ。

 

主:え?

 

H:僕は、どうやら君のことは好きみたいだ。

 

主:…!?

 

H:精霊人形として、オーナーと一緒に毎日を送るのも悪くないなって…そう思ったのは、アストリッド、君が初めてだ。

 

主:ルディ…。

 

H:…ねえ、アストリッド。

 

主:え?

 

私の名を呼んで、ルディは私から目を逸らした。

目を逸らしたルディの顔からは、微笑みが消えていた。

 

H:君も僕のこと好きだよね…?

  好きだから…僕に命を分けてくれるんだって…思っていて、いいんだよね?

 

そう言ったルディの眼差しは、ひどく不安げで。

その言葉は、私への問いかけを借りた彼の独り言のようだった。

 

H:………ふっ。〔少し自嘲的に〕

 

H:……さあ。

  始めようか。〔いつもの笑顔〕

 

そう言って、ルディは膝をついた。

 

 

<翌日>

 

〔リビング〕

S:……なあ、アストリッド。

 

主:なあに、叔父さま。

 

私は叔父さまとお茶を飲んでいた。

ルディはまだ休眠中だ。

 

S:あのさ…ルディのことなんだけど。

 

主:?

 

S:アズの休暇が終わったら、彼は凍結するべきじゃないかな。

 

主:!?

 

ルディを、凍結する…?

私は、叔父さまが言っていることの意味がよくわからなかった。

 

S:アズは、爺さんの件でひどく落ち込んでいただろう?

  そんなアズに笑顔を取り戻してくれたのはルディだ。

  だから僕は、彼にとても感謝している。

 

なら、なおさらどうして…!?

 

S:でも、彼はもう十分その役割を果たしてくれた。

  傷ついた人間を慰めるという人形としての役割をね。

  だから、もう彼にはただの人形に戻ってもらうのがいいんじゃないかな…。

 

ルディを、ただの人形に戻す…?

 

叔父さま、どうしてそんなことを言うの?

もともと精霊人形の復活を望んだのは叔父さまでしょう?

ルディと一緒に暮らしていて、どうして彼をただの人形に戻したいなんて思えるの…!?

 

私は混乱していた。

 

私は、叔父さまは自分と同じ思いでいるとばかり思っていた。

同じ思い…ずっとルディと暮らしていきたい、そう思っているのだと。

 

S:ずいぶん酷いことを言う…アズはそう思ってるだろ?

  自分でもそう思う。

  ようするに、1度与えた命を、彼から取り上げろって言ってるんだからね。

  だけどアズ。僕は心配なんだよ。

  このままずっと人形といることで、君が人形に溺れてしまうんじゃないかって。

 

主:………!

 

S:アズは人形にやさしい。それは良いことだ。

  それにアズのやさしさは、何も人形だけに向けられているわけじゃないだろう。

  でも。

 

主:でも?

 

S:…………。〔ため息〕

  アズは僕の姪だ。だから恋愛感情はないつもりだよ。

  でも、アズが人形に惜しみなく愛情を注いでいるのを見ると…何だろうな、嫉妬を覚えるときがある。

 

主:…嫉妬?

 

S:人間にとって一番大切なのは、人間じゃないのか…ってね。

 

主:…!

  ………叔父さま…。

 

S:ごめん。何だかヘンな話になっちゃったね。

  実はさ、僕も本気でルディを凍結したいと思ってるわけじゃないんだ。

  確かにオーナーはアズだ。

  でも、そのお膳立てをしたのは僕だから、ルディは自分の人形でもあると僕は思ってる。

  もっとも、僕がそんな風に思っていると知れば、ルディは嫌がるかもしれないけどね。

  だから僕には彼の幸福を願う義務がある。アズと同じように。

  彼が生きることを望むなら、僕はできるだけのことはしてやりたい…そう思ってるんだ。

 

叔父さま…。

 

S:でも、アズの休暇が明けたら、ルディをどうするのか考えておかなきゃなー…なんて思ってたら、ちょっと考えが脱線してきちゃってさ。

  まあ、なんだ。

  今更だけど、アズにはオーナーとしての自覚を忘れないで欲しいって、まあ、そういうことだよ。うん。

 

最後、叔父さまは明るい声でそう締めくくった。

……少しわざとらしいくらいに。

 

〔暗転〕

叔父さまも、本当はルディを凍結するつもりじゃなかったことがわかって、私はほっとした。

そして、ルディに対して私と同じ思いでいてくれることがうれしかったし、心強かった。

 

…………でも。

あれは、おそらく叔父さまの本心だ。

 

“人形に溺れる”

 

……………。

 

叔父さま、ごめんなさい…。

私はもう溺れているのかもしれない。

彼の姿、彼の声、彼の眼差し。

すべてが、私を強く惹きつけ、強く揺さぶる。喜びにも、悲しみにも、切なさにも。

私は、人形に恋をしている。

金色の人形…ホブルディに。

 

………でもね、叔父さま。

この気持ちは、一生胸の中にしまっておきます…。

叔父さまにも。ルディにも。

この先もずっとルディと一緒にいたいと望むなら…それがきっと1番いい。

 

私は、接蝕前に彼が口にした言葉を思い出していた。

 

「僕は、どうやら君のことは好きみたいだ」

 

そう。彼は私を好きだと言った。

だけど、彼が言う「好き」は、私が彼に抱いている“好き”という感情と同じものなのだろうか?

 

だって、彼は人形なのだ。

人間に似せて作られていても…彼は人間そのものではない。

人形は。

………恋をするのだろうか。

 

…………………。

 

……ただ、確かなことは。

私が彼のオーナーであるということ…。

彼のオーナーである限り、彼は私の側にいてくれる。

そんな彼に報いるために。

私は、彼の“良きオーナー”でいなくてはならない。

それ以上の存在になろうとするのは…。

…………きっと、強欲というものね。

 

私は今、十分幸せだわ…!

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

(2)

〔街〕

駅を後にした私は、1人家路についていた。

 

お仕事で1週間ほど家を空ける叔父さまを見送りに、私は駅に行ったのだった。

 

叔父さまを見送ったのはよかったけれど。

汽車がずいぶん遅れたために、私の帰りも予定よりかなり遅くなってしまっていた。

 

ルディ…心配してるかな…。

 

?:お嬢さん。

 

ふいにかけられた声に私は振り返った。

 

G:久しぶりだね、お嬢さん。

 

主:ジル。こんなところで会うなんて奇遇ね。

 

ジルに会うのは、この間、家を訪ねてくれて以来だった。

 

G:…そうだね、君と私は、運命の糸で結ばれているのかもしれないね。

  ……………。

 

少し大げさな言葉の後、ジルは口を閉ざした。

 

主:……ジル?

 

G:アストリッド。今から、私に付き合ってもらえないかな?

 

主:え?

  …ええ、いいわ。

 

いつもと少し違う雰囲気のジルを不思議に思いながらも、私は彼の後について行った。

 

 

〔路地裏〕

ジルが私を連れてきたのは、人気のない路地裏だった。

ジルはここで、私にどんな用事があるというのだろう?

 

G:昨日、私のオーナーが死んだ。

 

主:え?

 

レドモンドさんが亡くなった…?

 

主:うそ…。この間お会いしたときにはお元気そうだったわ。

 

G:死因は心臓麻痺だそうだ。

  私も驚いたよ。あまりに突然だったからね。

 

私は信じられなかった。

あのレドモンドさんが…。

 

と、ふいにあることに思い当たった。

 

主:…じゃあ、ジルはまもなく凍結してしまうの?

 

G:そういうことになるだろうね。

  オーナーを失った精霊人形は、自身の“生”も失うことになる。それが精霊人形の定めというものだ。

  もっとも、最後の接蝕は彼が死ぬ直前だったから、もうしばらくはこうしていられるが。

 

主:……新しいオーナーを探すつもりはないの?

 

レドモンドさんが亡くなってすぐにこんなことを言うのは、不謹慎かも知れない。

でも、精霊人形にとってオーナーの問題は、自身の命そのものに関わる重大な問題だった。

 

ジルはこのままただの人形に戻って、いつか誰かに目覚めさせられるのを待つつもりなのだろうか?

それとも、残された時間で新しいオーナーを選んで、新しい生活を始めるつもりなのだろうか?

 

G:……新しいオーナーを探す…。

  そうだね、それが精霊人形として1番正しい選択なのだろう。

  …だが、私は…。

 

途中で言葉を切ったジルは、何か思い詰めているようだった。

 

G:私はこれまで、オーナーの右腕でありたいと思っていた。

  彼がもっとも信頼し、もっとも心を許せる、そんな存在になりたいと。

  そしてそのためには、常に聡明で、美しく、強く、そして情に厚くあることが必要だと考えていた。

  アストリッド。私は、何故そう考えていたと思う?

 

主:え…?

 

G:それは、人間を畏敬していたからだよ。

  人間は人形の原型だ。人形は所詮、人間のフェイクにすぎない。

  だから人形は、人間を畏れ、敬い、…そして、憧れているのだよ。自分のあるべき本物の姿に。

  私は、畏敬する人間に必要とされ、認められたかった。

 

主:……ジル…。

 

私は漠然と、精霊人形を人間の友達のように思っていたけれど、ジルは違っていた。

人形の彼にとって人間とは、その身を捧げ、尽くすべき主人だったのだ。

 

G:…だが、それももう終わりにしようと思う。

 

主:…?

 

G:君は、最近立て続けに起こっている“墓荒らし”事件を知っているかい?

 

主:え?…ええ。

  …新聞にも載っていたから…。

 

ジル、どうして突然そんなことを…。

 

G:あの事件の犯人は私だよ。

 

主:え?

 

思いがけない告白だった。

信じられないと思うと同時に、ある疑問が私の頭をもたげた。

どうしてジルはそんなことを…?

 

G:ヴィクターに死体を集めるよう命じられてね。

 

主:……?

 

墓荒らしはジルの意志ではなかったのはわかったけれど。

じゃあ、レドモンドさんは何のためにジルにそんなことをさせたの?

 

G:君は覚えているかな?

  半年ほど前に、ヴィクターは娘を病で亡くしたと話したことを。

 

主:…ええ。

 

G:ヴィクターは、複数の死体を使って新たな1つの肉体を作り出し、そこに娘の霊を宿らせることで死んだ娘を蘇生しようとしていた。

 

主:!!

 

G:そんな方法で死んだ人間が生き返るなど、私は信じていなかったが…。

  だが、それでヴィクターの気がまぎれるのなら…そう思って私は死体を集めた。

  …………そう、死体だけならよかった。

 

「死体だけなら」?

 

G:やがてヴィクターは、生きた人間の肉体まで欲しがるようになった。

  娘を蘇らせるためには、新鮮な臓腑がどうしても必要だとね。

 

「新鮮な臓腑」を欲しがるいうことは、つまり…人の命を欲しがるということだ。

 

主:…じゃあ、まさか…ジル…!

 

G:その命令が出されたのはつい最近のことでね。

  幸か不幸か、私がグズグズしているうちにヴィクターは死んだ。

 

………よかった。

ジルは人を殺さなかったのね…。

 

G:私に限らず、精霊人形にとってこの手の“仕事”は珍しいことではない。

  ………アストリッド。

  今回はたまたま大きな罪を犯さずに済んだが…私はこれまでも、こういった類の仕事に手を染めてきたのだよ。

  そんな私を…精霊人形を、君は忌まわしいと思うかい?

 

主:………!

 

G:……ふっ。

  私は、畏敬する人間のためと思って努めてきたつもりだが…どうやら、人間とは私が思い描いているような存在ではなかったようだ。

 

レドモンドさんに私を殺すよう命じられ困り果てていたジルの顔が。

庭先で、雨に打たれていたジルの姿が、私の脳裏に甦った。

 

それだけでなく、彼はオーナーの誤った願望を満たすために利用されていたのだ。

墓を暴き、死体を盗み…さらに生贄まで催促されるようになった日々は、どんなに憂鬱だったことだろう…。

 

G:…………アストリッド。

  私はもう疲れたよ。人間に連れ添って生きることに。

 

ジルはいつものように美しかったけれど、その表情は古びた彫像のようだった。

 

主:……ねえ、ジル。

  ジルはこのまま眠りにつきたいって…そう思っているの?

 

ジルは凍結を望んでいるのだろうか…。

 

G:…………。

  君は知らないだろうが…実は精霊人形には、オーナーを必要とせずに生きられる方法がある。

 

主:え?

 

G:精霊人形がオーナーを持たずに生きるには…。

  人間の魂を取り込めばいい。

 

人間の魂を…取り込む…?

 

嫌な、予感がする。

 

G:擬似魂は魂として不完全なためオーナーとの接蝕を必要とする。

  ならば、人間の…本物の魂を取り込んで自分のものとすればいい。

  ただ、人間の魂といっても誰でもいいわけではなくてね。

  取り込める魂にはいくつか条件がある。

  今、その条件をすべて満たしている唯一の人間が…アストリッド、君なんだよ。

 

主:…………!

 

そう言うとジルは懐から短刀を取り出した。

 

G:これは“断霊剣”といって、人間の魂を取り出す剣だ。

  この剣も条件があって、使える期間が限られている。

  魂の条件、そして剣の条件。

  今、やっと両方の条件がそろって、私は自由になる機会を得た。

 

ジルの手の中で、短剣は鈍い光を放っていた。

 

G:アストリッド。君は、心のやさしい人間だ。

  雨の中で君から受けた恩を忘れたわけではない。

  ……だが。

  ……………。

  単刀直入に言おう。君の魂を、私に譲ってもらいたい。

 

魂…。私の魂。

ジルに魂を譲ったら…私はどうなるの?

 

G:間違っているのは私だ。わかっている。

  何の罪もない…いや、それどころか、恩人ですらある君に、自分のために死んでくれと言っているのだからね。

  君にはすまないと思う。………だが。

  君もまた人間の1人だ。

  少しばかり施された温情を理由に君を信じてしまっては、私はまた同じ過ちを繰り返すことになる。

  ……私はこれまで、人間というものをずいぶん買い被っていたようだからね。

 

そう語るジルの瞳には、濃い影が差していた。

その影はすみずみまで彼の心を覆い、怒りや悲しみさえも遮っているかのようだった。

 

ジルは私に剣を向けた。

 

私の魂で。

ジルは自由を得て。

私は死ぬ…?

 

今、ジルが向けている剣…あれで私は刺されるの?

そして、私は死ぬの?

そんなの…。

そんなことって…!

 

?:間違ってると思うことは、やっちゃダメじゃないの?

 

G:!?

 

私とジルは同時に、声がした方向に顔を向けた。

 

主:ルディ!

 

そこにはルディがいた。

 

H:まずはその物騒なものをしまってくれないかな?

  彼女、怖がってるじゃないか。

 

G:……………。

 

ジルは小さくため息をついた後、剣を納めてくれた。

 

とりあえず…安心していいのかな…。

 

H:精霊人形の鑑みたいな君が、こんなことするなんて正直驚いたよ。

  ま、腹の中がわからないのは、人間も人形も同じかな。

  さ、アストリッド。余所の人形のことはほっといて、帰ろう。

 

ルディは私の手を取ると、強引に歩き出した。

 

とりあえず命の危険は去ったようでほっとしたけれど…。

でもその一方で、立ち去り難い気持ちもあった。

 

どうして…こんな気持ちなのだろう。

ジルは私を殺そうとしているのに…。

 

そう思っていたときだった。

 

G:ホブルディ。まだ話は終わっていないよ。

 

その声にルディは足を止めた。

 

G:彼女は君のオーナーだ。彼女を守ろうとするのは、精霊人形として当然のことだろう。

  …だが、私も彼女を諦めるわけにはいかない。

  ホブルディ。君も、私たち精霊人形にとって、今が自由を得る千載一遇の機会だということを知っているはずだ。

 

H:……………。

 

G:同じ精霊人形なら、私の気持ちがわかるだろう?

  君も…本当は望んでいるはずだ。

  自由になることを…人間からの解放を。

 

H:…………!

 

ルディは答えなかった。

 

ルディも自由になりたいって…私から解放されて生きたいって思っているの…?

 

G:………。〔ため息〕

  ……今日のところはこれで引き下がるとしよう。

  …だが。

 

ジルは私を見た。

 

G:今度会うときが、君との永久の別れとなるだろう。

  では、さようなら。心やさしい、私のお嬢さん。

  また会う日まで…ごきげんよう。

 

〔ジル退場〕

 

そう言い残して、ジルは私たちの前から立ち去った。

 

路地裏に取り残された私たちは、それぞれに黙り込んでいた。

 

H:…………。

 

ルディは何か考え込んでいるようだったし、私はまだ、今の出来事が整理できないでいた。

 

?:いよいよ動き出したな。

 

主:!?

 

H:!

  …イグニス。

 

振り返ると、そこに銀色の人形…イグニスが立っていた。

 

H:君、彼に手を貸してるの?

 

I:人間の魂を取り出すあの剣は私が管理している物だ。

  だからあれを貸し与えたのは確かに私だが、それ以上手を出すつもりはない。

  自分の運命は自分で切り拓くものだ。

 

イグニスの声は淡々としていた。

つまりこの先、自分は傍観者を決め込むと言っているのだろう。

 

主:イグニス、教えて。

  ジルは人間から解放されて自由になりたいって言ったわ。

  そのために私の魂が必要だって。

  そうやって解放された人形は本当にいるの?

 

I:………。

 

イグニスは私を見た。

燃えるようなルビーの瞳と裏腹な、冷たい視線。

 

と、ふいに彼は背を向けると。

首元を緩め、銀色の長い髪を掻き分け、その項を私に見せた。

 

主:!!

 

白磁のような彼の項に、ネジはなかった。

人間の隷属の証であるネジが。

そこにあるのは、うっすらとした十字型の痣だけだった。

 

主:イグニス…あなたが解放された人形なの?

 

I:そういうことだ。

 

イグニスは背中越しにそう答えると、そのまま立ち去ろうとした。

 

主:待って、イグニス!

 

I:…?

 

主:私の魂でジルを解放できるのなら…、ルディの解放も私の魂でできるんでしょう?

 

H:えっ…!?

 

I:ふっ…。

  娘、お前はなかなか利口のようだ。

  そう。もしお前の魂でお前の人形を解放できるなら、自分の人形に殺される可能性がある。

 

………イグニスは勘違いをしている。

私はルディを怖れてこんな質問をしたわけじゃない。

 

H:………。〔逼迫した表情〕

 

ルディはたぶん、私の質問の意味を正しく理解している。

 

I:いいだろう。今の質問に答えよう。

  他のすべての条件を満たしていても、自分の人形を自分の魂で解放することはできない。

  解放できるのは、過去に接蝕をしたことがない人形だけだ。

 

H:………。〔安堵の表情〕

 

“私の魂でジルの解放ができるなら、ルディの解放もできるはずだ”

 

そう思いついた私は、咄嗟にそう尋ねたけれど。

でも、私にその勇気が本当にあっただろうか?

自分の命と引き換えに、ルディに自由を与える勇気が。

 

……わからない。

 

でも、もうこの選択肢は消えてしまった。

 

私の魂でルディを解放することはできない。

 

イグニスの答えは、私に迷う余地さえ残さなかった。

 

I:ホブルディ、ジルは本気だ。

  お前もまた、自分のオーナーを本気で守ろうとするなら、どちらかが死ぬかもしれんな。

 

主:!

 

H:………。

 

I:解放を求めて死ぬも、オーナーの盾となって死ぬも、偏に精霊人形ゆえに…か。

 

〔イグニス退場〕

 

 

〔主人公の部屋〕

あの後、帰る道すがら私はルディにいくつかのことを尋ねた。

 

解放のこと。

ジルのこと。

そしてルディ自身のこと。

 

だけどルディは、私が知りたいことについてはっきり答えてはくれなかった。

 

家に着いてからもルディは私を避けていた。

ルディは、精霊人形の問題に私を巻き込みたくなかったのかもしれない。

 

でも、そういうわけにはいかないだろう。

ジルは言った。

「今度会うときが、君との永久の別れとなるだろう」と。

 

……ジル。薔薇色の人形。

圧倒的な気品と優美さの下に、人心をかき乱す艶やかさを秘めた人形。

そして彼は、忍耐強く、情の深い人形だった。

……でも、そんな彼の心を、人間は踏みにじり続けたのではなかったか。

 

ジルは…。

ううん。精霊人形たちは。

人間の憎しみや悲しみ、あるいは暗い欲望をただひたすらに受け入れてきたのだろうか?

ジルはあの日、理不尽な仕打ちを受けていながらまだ、レドモンドさんに従おうとしていた。

逃げることも逆らうこともできず、人形はただ人間に縋るより手だてがない。

精霊人形という性ゆえに。

 

あの日のジルの虚ろな目は、接蝕のときのルディの目と重なった。

 

ルディは…私の精霊人形はどう思っているのだろう…。

 

ジルの言葉を思い出す。

 

ジルはルディにこう言ったわ。

「君も…本当は望んでいるはずだ。自由になることを…人間からの解放を」

 

ルディは、否定しなかった。

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

(3)

<翌日>

 

〔廊下〕

主:おはよう、ルディ。

 

H:…あ、おはよう…。

 

ルディは微笑んでいたけれど、いつもの輝くような笑顔からはほど遠かった。

やっぱり昨日のことが…。

 

H:……たぶん、だけど。

  ジルはもう2度と人間の奴隷になんかなるもんかって…そう思ってると思う。

 

ルディは唐突に話し出した。

 

H:だとしたら、とりあえず適当な人間をオーナーに選んで、時間を稼ぎながら君を狙うなんてことはしないんじゃないかな。

  となると、彼の凍結までが勝負だ。

  ……ねえ、アストリッド。

 

主:?

 

H:君はしばらく外出しない方がいい。

 

主:え。

 

H:彼は2週間足らずで凍結するんだ。

  だったら、それまで身を隠していれば、それでゲームオーバーさ。

  とりあえずはこの屋敷が1番安全だろうね。

  騒ぎにして、精霊人形の存在を人間に知られるのもまずいし、勝手がわかっている場所の方が僕も君を守りやすい。

  ただ、問題は僕の休眠時間だよね。

  この時間帯に襲われたら、僕にはどうすることもできない。

  もっとも、僕がいつ休眠に入るか彼は知らないんだから、その時間を狙って君を襲うことはできないはずだけど…。

  このことについては、考えとかなきゃいけないね。

  まあ……とにかく。

  君はしばらく、この屋敷から出ちゃダメだ。

  ……いいね。

 

〔ホブルディ退場・ドアの開閉音〕

 

それだけ言うと、ルディは私の返事も聞かずに行ってしまった。

 

 

〔庭〕

昼食を済ませた私は庭に出ていた。

ルディに外出は控えるように言われていたけれど、お庭くらいは出ても大丈夫よね…。

 

自分が命を狙われているなんて、まるで実感がわかなかった。

晴れわたった空は高く、今日は風さえもない。

何もかもがいつも通りだった。

 

今思えば。

レドモンドさんが私を殺そうとしたのは、娘さんを蘇らせるための生贄とするためだったのだろう。

レドモンドさんは、私の肉体なら娘さんが喜ぶって…たしかにそう言ったもの。

ただ、結局命令を取り下げたということは、あのときはまだ、レドモンドさんも覚悟ができていなかったのかもしれない。

“生きた人間の命を奪う”という覚悟が。

 

そしてジルは、私が解放の鍵となる人間だと知っていたからこそ、罰を受けるのを覚悟の上でレドモンドさんの命令に背いた。

つまり、もしも私が彼の解放と無関係な人間だったら、あのとき本当に殺されていたかもしれない。

だって、精霊人形にとってオーナーの命令は絶対のはずだから。

 

初めてレドモンド邸を訪ねたあの日。

私はレドモンドさんに、精霊人形を人間の奴隷とは思わないと言った。

その気持ちに今も変わりはない。

だけど。

精霊人形が自由を欲したとき、私は喜んでそれを受け入れられるだろうか?

 

……………。

 

…たぶん、できない。

もし、精霊人形が自由を手に入れたなら。

彼の命を繋ぐ“魂の提供者”という特別な立場を失ったなら。

彼は自分の元から去ってしまうかもしれない。

…………そんなのは嫌だ。

精霊人形には、一生自分の側にいて欲しい…。

 

私は苦笑した。

結局私も、人形を奴隷と言ったレドモンドさんと大差ないのかもしれない。

私だって、ルディを自分に縛りつけたがっている。

オーナーの特権を使って。

この気持ちをルディが知ったら、彼は私を軽蔑するだろうか…。

 

H:外に出ないでって言っておいたはずだけど。

 

いつしか私の背後にルディが立っていた。

 

主:あの、お庭くらいいいかなって思って…。

 

H:ジルはフェミニストだけど、今回ばかりは心を鬼にしてると思うよ。

  なにしろ君は、彼の「自由への切符」だからね。

 

主:…………ごめんなさい…。

 

ルディは本気で私の心配をしてくれている。

なんだか浮ついた気持ちでいる自分が申し訳なかった。

 

H:さ…屋敷に戻ろう。

 

主:…ええ。

 

?:もう遅いよ、ホブルディ、アストリッド。

 

H:!

 

主:ジル!

 

振り向いた私たちの視線の先には、ジルが佇んでいた。

 

G:…ホブルディ、取引をしないか。

 

H:取引?

 

G:私に、君のオーナーを譲って欲しい。

  精霊人形にとってオーナーは命をかけて守るべき存在だが、取り替えがきくこともまた事実だ。

  もし君が彼女を諦めてくれるなら、新しいオーナーを見つけてくることを約束しよう。

 

ルディに、新しいオーナー…。

 

G:オーナーの選定は、本来人間にすべてを委ねるのが定めだ。

  だが、今回、君がオーナーを失う理由が精霊人形の解放と関わっているのだから、人形の私がオーナーの選定に関与することも許されてしかるべきだろう。

  ……ホブルディ。

  君は、そういう純真な少女が好みなのかい?

 

H:……君さ、なんにもわかってないね。

  僕は彼女が気に入ってるんだ。

  代わりなんてどこにもいないよ。

 

G:……………。

  私たち精霊人形は、もう数えるほどしか残っていない。

  その同朋同士で傷つけ合い、命を奪い合うなど、本来はあってはならないことだ。

  できれば君と争うようなことはしたくないと思っての提案だったのだが…。

  ……………。

  正直、私は意外だったよ。

  君がオーナーに執着するなど。

 

H:?

 

G:君はすべての人間を軽蔑しているとばかり思っていたのでね。

 

H:…!

 

G:どうやら私は君を誤解していたようだ。

  それとも、彼女が君を変えてしまったのかな…?

 

そう言ってジルは私を見た。

 

H:………まあ、そうかもね。

  人間をこんな風に好きだと思ったのは、彼女が初めてだ。

 

ルディ…。

 

G:…………。

  わかった、ホブルディ。君の意志は固いようだ。

  ならば…私は、自分の力で彼女を手に入れよう。

 

そう言ってジルは右手を軽く振り下ろした。

と、同時にジルの手から強い光があふれ。

光が収まったときには、長剣がその手に握られていた。

 

H:僕も暴力は好むところじゃないけど。

  彼女のためなら…僕は戦うよ。

 

ルディの手にもいつしか剣が握られている。

修理の日、ジャックがミニチュアを本物にしてみせたあの剣が。

 

剣先を互いに向けたまま、2人はしばらく睨み合っていた。

 

でも、ルディがわずかに動いたと同時に、それは始まった。

 

2人は並んで走り出した。

 

速い!

 

2人はまるで、金色と薔薇色の獣のようだった。

 

2人は剣をぶつけ合い、離れ、再びぶつかり合った。

鋭い鍔迫り合いの音と、地面を蹴る乾いた音が辺りに響く。

 

人形たちのその素早さ、そのしなやかな肢体の動きに、私はいつしか目を奪われていた。

人形たちの剣術は、人間のそれを明らかに凌駕していた。

 

少し前、叔父さまから聞いた話がある。

精霊人形は、自身に宿る精霊の力を使うことで、特異な能力を発揮することができるのだと。

その1つが、ジャックが以前私に見せた不思議な力だったけれど。

今はまた、精霊人形が持つ精霊の力が別の形となって発揮されている、ということなのだろう。

私は、人間を超えた精霊人形の力に、ただ目を見張るばかりだった。

 

G:…!〔苦しげな表情〕

 

H:……。

 

ルディの方が、押してる…!

 

最初、2人は互角に見えた。

でも、今は違う。

ルディの方がジルより強いのだ。

このままじゃ…。

 

「どちらかが死ぬかもしれない」

イグニスの言葉が私の脳裏に甦った。

 

「精霊人形も、決して不死身ではない」

ジャックの言葉も。

 

死ぬ。精霊人形が死ぬ。

精霊人形が、精霊人形の手によって死ぬ。

 

と、そのとき。

一際高い金属音が空に響いた。

 

G:っ!!

 

ジルの剣が、ルディの剣によって弾き飛ばされていた。

 

武器を失ったジルの喉元に、ルディの剣の切っ先が向けられる。

 

もし今、ジルが私を諦めると言えば、ルディは彼を許すだろうか?

 

…ううん。それはない。

 

武器を奪われ、刃を喉元に突きつけられていてなお、ジルはその目に戦意を滾らせていた。

戦意を失っていないジルを、ルディが許すことはないだろう。

 

ジルは、今日ここで死んでもかまわないと思っているのかもしれない。

この先、人間の奴隷として生かされるくらいなら、賭けに敗れて命を落とすほうがまだましだと。

 

じゃあ、このまま…?

 

………………。

 

……………………。

 

私には、昨日から考えていたことがあった。

 

今、私は、その気持ちを固めた。

 

主:ルディ!

 

私は叫んだ。

その声に2人が同時に私を見る。

 

…大丈夫。ちゃんと…言える。

 

主:ルディ。剣を納めて。

 

H:……君、何言ってるの?

 

主:もう1度言うわ。

  ルディ、剣を納めて。

 

私はできる限り毅然とそう言った。

 

H:…………。〔ため息〕

  …ワケわかんないけど…まあ、いいや。

 

ルディは不服そうだったけど、とにかく剣先を下してくれた。

 

G:…………?

 

ジルは訝しげにこのやりとりを見ている。

 

私はひとつ深呼吸をした。

大丈夫。ちゃんと言える。

 

主:ルディも、ジルも聞いて。

 

私は2人の顔を見た。

 

主:私の魂をジルにあげるわ。

 

H・G:!?

 

主:私の魂を、ジルにあげる。

 

私は、さっきよりゆっくりと言った。

 

H:…君さ、頭、大丈夫?

  魂をやるってことは、死ぬってことだって、ちゃんとわかってるよね?

 

主:わかってる。わかってて私は言ってるの。

  ジルに魂をあげるって。

 

H:……何、それ…。

  それってさ…ジルのために喜んで犠牲になるってこと?

  何だよ…それ。……そんなの…。

  君は…君は僕の命そのものなのに…。

  ジルに命を捧げるなんて…そんなの…そんなの、絶対許さないよ!

  ねえ、アストリッド。

  君が死ぬってことは、僕にも死ねって言ってるようなものだって、わかってて言ってるの!?

 

………ありがとう、ルディ。

私の命を惜しんでくれるのね。

“凍結”は“死”に似ていても、“死”そのものではないわ。

 

G:…アストリッド。

  君は清らかで…本当に心のやさしいお嬢さんだ。

  今の言葉も嘘ではないと思う。

  だが、ホブルディがそれを許さないだろう。

 

そう言ってジルはルディを見た。

 

H:わかってるじゃないか、ジル。

 

言ってルディは剣の柄を握り直し、再びジルにその剣先を向けた。

 

G:君の申し出はありがたいが…。

  やはり私たちは、どちらかが倒れるまでやるしかないようだ。

 

ジルは会話を続けながらも、目線は自分の弾かれた剣を探していた。

おそらくルディの隙を窺っているのだろう。

それに私の言葉も本当は信用していないのかもしれない。

 

主:大丈夫よ、ジル。もうこれ以上2人が争う必要はないわ。

  だって人形には“あの日”があるもの。

 

H・G:………?

 

H・G:!!

 

ルディの顔色が変わった。

 

ジルは軽く目を見開いた。

 

2人は同時に私の考えを察したようだった。

 

G:…たしかに、君が協力してくれるなら、私は“あの日”を利用できる。

 

“あの日”それは“接蝕日”。

人形が人形に戻る日。

 

主:ジル、ルディの接蝕日は明後日、午後11時が限界時間よ!

 

私は早口で叫んだ。

限界時間。器から魂の流出が始まる時間だ。

人形とオーナーはこの時間を接蝕の目安にしている。

…もう、後戻りはできない。

 

H:嘘だろ…アストリッド…どうして…!!

 

G:わかった。君を信用しよう。

  では、明々後日の夜明けに…レインフォーヴの丘で会おう。

  それまでごきげんよう…お嬢さん。

 

〔ジル退場〕

 

私にそう言葉を投げると、ジルは軽く身を翻して剣を拾い、そのままここから走り去った。

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

(4)

〔公園〕

M:私、何か飲み物を買ってくるわね。

  あ、アストリッド、あなたはここで待ってて。

  あなたの分も買ってくるから。

 

〔モニカ退場〕

 

モニカを見送って、私は1人ベンチに座った。

今日この公園の広場ではミニコンサートが催されていた。

 

誘ったのは私の方。

モニカは突然の誘いに少し驚いていたけれど、喜んで付き合ってくれた。

今はもうコンサートは終り、広場に残っている人は数えるほどだった。

 

ジルがやって来たのは昨日のことだ。

 

あの後。

ルディに強く問い詰められたけれど、私は一切答えなかった。

 

……ずるかっただろうか?

 

でも私に、彼と話し合うべきことは何もなかった。

だって、もう、決めてしまったことだったから。

だから彼に何を言われても私の決心は揺るがなかったけれど。

ルディの怒りと悲しみとあきらめの入り混じった目を見たとき、私の胸は強く軋み、今もまだ軋んだままだった。

 

M:お待たせ。はい。

 

主:ありがとう。

 

私はモニカからジュースを受け取って、一口飲んだ。

 

M:……ねえ、アストリッド。

  あなた…何か悩み事があるんじゃない?

 

主:え?

 

私はぎくりとした。

 

M:もしそうなら、お願い、私に打ち明けて。

  私がどのくらい役に立てるかわからないけど…でも、お友達でしょ?

 

モニカ…。

 

M:もしかして、亡霊みたいなあの人のことじゃない?

  ねえ、そうでしょ!?

 

主:…違うわ。ルディは関係ない。

 

嘘。…でも、本当のことなんて言えない。

 

主:昨日よく眠れなくて。

  やだな、私、そんなに疲れた顔してた?

  もう、そんな心配しないで。本当に何でもないんだから。

 

私はモニカに笑って見せた。

 

M:……………。

  わかったわ。でも、これだけは忘れないで。

  あなたは私の大切なお友達だってこと。

  だから話をしたい気持ちになったら、いつでも打ち明けてね。

 

主:…ありがとう。

 

モニカはたぶん、私が隠し事をしていることに気づいてる。

気づいていて、今はそっとしておいてくれると言っているのだ。

……ありがとう、モニカ。

最後にこうして会えて、本当によかった。

 

 

〔リビング〕

公園から戻った私はリビングにいた。

 

今、お屋敷は静まり返っている。

 

叔父さまはお仕事で出張中。

 

ルディは朝から姿を消していた。

 

私の意向に逆らって。

魂の譲渡を阻止しようとしているルディは、たぶん。

私を恐れている。

彼を強制凍結できる私を。

もっとも接蝕日でもないルディから、力ずくでネジを抜けるとは思えなかったけど。

でも、「強制凍結する力」を持った私が側にいては、彼は落ち着かなかったに違いない。

 

そしておそらくルディは今、ジルを追っている。

自分の限界時間が来る前に、ジルを捕えることができれば…そう考えているのだろう。

武術ではたぶんルディの方が上だ。

………だけど。

もしかしたらルディは、ジルを倒すというよりも、足止めをする方法を考えているのかもしれない。

ジルが凍結するまで彼を私に近づかせなければ、それでルディの目的は達成できるのだから。

 

そしてそれは、ジルも同じで。

命まで奪わなくてもルディを抑え込められさえすれば、望みのものは手に入る…そう考えて彼に挑んだのではなかったか。

 

相手も自分と同様、命がけで臨んでくることを知っていたからには、本当に“最期”までやらざるをえない事態も、状況によってはありえると2人は考えていたはずだ。

だけど、できればそんなことはしたくないと思いながら、2人は剣を交えていたに違いない。

 

だって、同じ精霊人形同士。

人間との関係とはまた別の、実の兄弟のようなかけがえのない仲間だわ…。

 

争う人形たちに2人の意志の固さを感じた私は、本当にどちらかが死んでしまうんじゃないかと、昨日は居ても立ってもいられない気持ちだったけれど。

冷静になって考えれば、器の損傷は避けられなかったにしても、本当にどちらかの命が失われる危険は小さかったのかもしれない。

 

……でも。仮に、この想像が当たっていたとしても。

やっぱり、あのときルディを止めてよかった。

もうあれ以上、私は精霊人形同士が傷つけ合うところを見たくなかったし。

もしあのまま続けていたら、ルディによって絶たれてしまっていたはずだ。

ジルの望みも。私の願いも。

 

…………………。

 

ジルを封じる方法はともかく。

身を隠したジルをこの2日間で見つけられるかが、ルディにとって最大の問題のはずだった。

 

2人がどこで何をしているかはわからない。

今、私にできるのは、ただ待つことだけだった。

 

 

〔夜・主人公の部屋〕

手紙を書き終えた私はペンを置いた。

手紙は叔父さまに宛てたものだ。

 

叔父さまの心配は的中してしまった。

私は、人形のために命を捨てようとしている。

叔父さまが今いないことは、私にとって幸運だった。

いないからこそ、私は魂を人形に差し出すことができる。

叔父さまは、ルディとは…私の人形とは違う。

叔父さまがいたら、きっと私は止められていた。

 

手紙にはこれまでの経緯と精霊人形への思いを書いた。

 

……どうか私の気持ちが、ちゃんと叔父さまに届きますように。

 

そう祈って、私は封をした。

 

 

<翌朝>

 

〔リビング〕

私は1人で朝食の用意をし、1人で朝食をとり、今1人で、お茶を飲んでいる。

 

ルディはまだ戻らなかった。

 

ルディ…。

…会いたい…

 

解放のことも、ジルのことも、明日には自分がこの世からいなくなるということも、不思議なくらい今は頭になかった。

 

ルディに会いたい。

…一目でいいから、ルディに会いたい…。

 

その気持ちだけが私の胸に募っていた。

最後にルディに会うことができれば…私はきっと幸せな気持ちで、すべてを諦めることができる。

 

でも、たとえルディが私の元に戻らなくても。

一目会うことが叶わなくても。

私はジルとの約束を果たさなくてはならなかった。

 

 

〔夜・リビング〕

夏の夜は短い。

でもその分、濃密な闇が辺りを包んでいた。

 

限界時間の午後11時まで、すでに1時間を切ろうとしていた。

接蝕は限界時間およそ8時間前からすることができる。

だからこんなにぎりぎりまで接蝕をしないことは今までなかった。

 

ルディは大丈夫なのだろうか?

限界時間が近いこの時間帯、魂の定着力はかなり低下しているはずだ。

つまり、今、ルディの精神は著しく不安定になっているということになる。

 

私は、雨の中、立たされていたジルを思い出していた。

もしもルディがあんな状態だったら、ここへ帰ろうにも帰って来られないかもしれない。

 

道に迷って、そのままここへ戻れなかったとしたら……?

もしかしたら、もう体の自由がきかなくなっているのかもしれない…!

…どうしよう…捜しに行かなきゃ…!

…ううん。ダメ。ここを動いたらダメだ。ルディが戻ったときに、私がいなきゃダメだもの。

ああ、でも…、どうしたら…!

 

〔ドアの開閉音〕

 

主:ルディ!?

 

私は玄関へ駆け出した。

 

 

〔玄関〕

H:…………。〔無表情〕

 

主:ルディ!

  …よかった。心配してたのよ…。

 

H:…………。

 

ルディはぼんやりしていた。

あの日のジルのように。

 

ああ、時間が…そうよね。

 

ルディはもう、ぎりぎりなのだ。

どこまで行っていたかわからないけれど、ここに戻ってくるだけで精一杯だったに違いない。

 

主:すぐに始めましょう。ね?

 

言って私はルディの手を取った。

だけど。

 

H:…!

 

彼は、私の手を強く振り払った。

 

主:ルディ…!?

 

H:…アストリッド…。

 

ルディは、戸惑う私の肩を両手でつかんだ。

 

主:!?

 

痛い。

予想外の力でつかまれ、私は驚いた。

 

H:…行っちゃダメだよ…お願いだから行かないでよ…アズ!

 

潤んだ声が私にすがりつく。

 

…………おそらく。

ルディは、ジルを捕えるという目的を果たせなかったのだ。

果たせないうちに自分の時間が迫り、私の元に戻ってきてしまったのだ。

魂の命じるままに。

 

H:…どうしてジルのために死ぬなんて言うの?

  もしかして、ジルのことが好きになっちゃったの?

  ねえ、君は僕よりジルが好きなの?

  君の人形は僕なんだよ?いつも君の側にいるのはこの僕なんだよ?

  君を守るためなら、命だって惜しくない…僕は心からそう思ってる。

  そんな君の人形に、君は愛情を感じないの?ねえ!?

 

!!

ルディに愛情を感じないなんて、そんなことあるわけない!

 

強くそう思ったけれど。

その気持ちを言葉にする間も私に与えず、ルディは一方的にしゃべり続けた。

 

H:だいたいジルなんて、たった何度か会っただけじゃないか!それなのに…。

  ジルの方が綺麗だから?ジルの方が大人だから?人間にやさしいから?

  ねえ、どうして…?

  僕は、僕はこんなに君が好きなのに…ねえっ、どうして!?

 

言いながらルディは、私を乱暴に揺さぶった。

目は…本当に私を見ているのだろうか?

まるで何も見ていないようで怖かった。

 

主:ちょっ…ルディ…!

  ルディっ!やめてっ!!

 

H:……!

 

私の叫びに、ルディの動きがぴたりと止まった。

私の肩を痛いほどにつかんでいた両手のひらから力が抜け、彼の両腕はだらりと下げられた。

無言で私をぼんやりと見つめているルディは、さっきまでの激昂が嘘のように静まり返っていた。

 

主:………?

 

正直、意外だった。

たった一言で、あんなに取り乱したルディを止められるなんて…。

 

そう考えて私ははっとした。

そうだ、ルディは今、いつものルディではないのだ。

今のルディは、接蝕を求める“魂の意志”に、心の大部分を支配されている。

今、オーナーである私の言葉は、彼を自分の意のままにできる“力”を持っているはずだった。

 

 

主:ルディ…落ち着いて…。

  これから接蝕を始めるわ。だからお願い、屈んで。

 

H:……っ!

 

ルディは屈もうとはしなかった。

 

器はオーナーを強く求めているはずだ。

早く接蝕しなければ、精霊人形はただの人形に戻ってしまう。

だけど、ルディの意志はそれに抗っていた。

ここで接蝕をしてしまったら、もう自分は何もできない。

混濁した意識でもまだそれがわかるのだろう。

 

ルディは、私を引き留めようとして苦しんでいた。

 

…私にできることは、1つしかなかった。

 

主:……ルディ。

  …屈みなさい。

 

命令口調は嫌い。特に精霊人形には。

でも。

 

H:……!

 

私はもう1度言った。

 

主:屈みなさい、ホブルディ!

 

H:………。

 

ルディは、苦悶の表情のまま、ぎこちなく体を屈め…そして片膝を床についた。

サファイアの瞳が私を見つめる。縋るように。

 

主:………!

 

胸に、痛みが走った。

胸が、痛くて、…言葉が、言葉にならなかった。

 

…でも、今。今、伝えなきゃ。

ルディに私の気持ちを…。

 

主:………ねえ、ルディ…聞いて。

  精霊人形の復活は叔父さまの願いだったけど…本当はそれだけじゃなかった。

  私はここにやってくる前…ちょっといろいろあって、人が信じられなくなっていたの。

  それまでは人を信じるのは当たり前のことだと思っていたけど、それができなくなってた。

  だから、もし、私のすべてを受け入れ、私にすべてを差し出し、私のためにひたすら尽くしてくれる存在がいたら、どんなにいいだろう…そう思って私はあなたを目覚めさせた。

  でもね、ルディ。

  それは間違ってた。

  だって、精霊人形は“心”を持ってたもの。

  人間のそれと同じように、誰も支配できない“心”を。

  たしかに人形の魂を握っているオーナーは、人形の行動を支配できる。でも、それは“心”そのものじゃない。

  だけど…。

  だけど、精霊人形が心を持っていたからこそ…私はあなたが…、ルディが好きだった。

 

H:…………。

 

主:ごめんなさい、ルディ。

  私も結局はオーナーの立場を利用してあなたを服従させてる。

  こんなことをさせられて…怒ってるわよね。

  でも…それでももし、私の最期のお願いを聞き入れてくれるなら…。

  ルディ、この先はどうか叔父さまの人形として生きていって…。

 

H:…………。

 

ルディはただ私を見上げていた。

今、彼の目に、何の感情も読み取ることはできなかった。

私の言葉は、彼の耳に、心に届いただろうか…?

 

主:ルディ…ありがとう。

  あなたに会えて、本当によかった。

 

私はルディの冷たい額に口づけ…。

そして、左手のひらを彼の額に押し当てた。

 

 

第6章