第5章:精霊人形の望み
(1)
〔ジャックの部屋〕
今日は接蝕日だ。
接蝕は、今回で4度目になる。
でもあの奇妙な感覚に、私はまだ慣れないでいた。
J:……………。
主:じゃあ、始めましょうか。
J:……………。
アストリッド。
ここしばらく、おまえについて考えていたのだが。
主:?
J:精霊人形にとって人間は、生命の拠り所であり、自身の原型である以上、決して無関心でいることのできない存在だ。
だが、それを差し引いてなお、俺は人間というものに興味を持っていた。
生まれながらに生命を持つ肉体は言うに及ばず、その肉体につらなる多様な感情・思考もまた、実に興味が尽きない。
常々そう思い、観察していたが…。
……………。
おまえに対する興味は、これまで人間に抱いていた興味と、どうやら種類が違うようだ。
主:え?
J:おまえが笑っていると、俺は満ち足りた気分になる。
おまえが泣いていると、俺は落ち着かなくなる。
これはとても奇妙な現象だ。
人間と共に暮らしている以上、人形である俺も、人間の感情に関わって生きてきたが…。
人間の感情が、俺の心に直接触れてくるような感覚はおまえが初めてだ。
なぜおまえの感情が、俺の心にこうも干渉してくるのか…。
それが侵食ならば食い止めなくてはならない。
でなければ、俺はおまえの感情に乗っ取られてしまうことになるからな。
だが俺は…もうしばらく、この侵食を許したい気分なのだ。
ふっ。〔自嘲的に〕
まったく…本当に奇妙な現象だ…。
…ジャック。
J:…さあ、始めろ。
そう言うと、ジャックは跪いた。
<翌日>
〔リビング〕
S:……なあ、アストリッド。
主:なあに、叔父さま。
私は叔父さまとお茶を飲んでいた。
ジャックはまだ休眠中だ。
S:あのさ…ジャックのことなんだけど。
主:?
S:アズの休暇が終わったら、彼は凍結するべきじゃないかな。
主:!?
ジャックを、凍結する…?
私は、叔父さまが言っていることの意味がよくわからなかった。
S:アズは爺さんの件でひどく落ち込んでいただろう?
そんなアズに笑顔を取り戻してくれたのはジャックだ。
だから僕は、彼にとても感謝している。
なら、なおさらどうして…!?
S:でも、彼はもう十分その役割を果たしてくれた。
傷ついた人間を慰めるという人形としての役割をね。
だから、もう彼にはただの人形に戻ってもらうのがいいんじゃないかな…。
ジャックを、ただの人形に戻す…?
叔父さま、どうしてそんなことを言うの?
もともと精霊人形の復活を望んだのは叔父さまでしょう?
ジャックと一緒に暮らしていて、どうして彼をただの人形に戻したいなんて思えるの…!?
私は混乱していた。
私は、叔父さまは自分と同じ思いでいるとばかり思っていた。
同じ思い…ずっとジャックと暮らしていきたい、そう思っているのだと。
S:ずいぶん酷いことを言う…アズはそう思ってるだろ?
自分でもそう思う。
要するに、1度与えた命を、彼から取り上げろって言ってるんだからね。
だけどアズ。僕は心配なんだよ。
長く人形と生活を共にすることで、君が人形に溺れてしまうんじゃないかって。
主:………!
S:アズは人形にやさしい。それは良いことだ。
それにアズのやさしさは、何も人形だけに向けられているわけじゃないだろう。
でも。
主:でも?
S:…………。〔ため息〕
アズは僕の姪だ。だから恋愛感情はないつもりだよ。
でも、アズが人形に惜しみなく愛情を注いでいるのを見ると…なんだろうな、嫉妬を覚えるときがある。
主:…嫉妬?
S:人間にとって1番大切なのは、人間じゃないのか…ってね。
主:…!
………叔父さま…。
S:ごめん。なんだかヘンな話になっちゃったね。
実はさ、僕も本気でジャックを凍結したいと思ってるわけじゃないんだ。
確かにオーナーはアズだ。
でも、そのお膳立てをしたのは僕だから、ジャックは自分の人形でもあると僕は思ってる。
だから僕には彼の幸福を願う義務がある。アズと同じように。
彼が生きることを望むなら、僕は出来るだけのことはしてやりたい…そう思ってるんだ。
叔父さま…。
S:でも、アズの休暇が明けたら、ジャックをどうするのか考えておかなきゃなー…なんて思ってたら、ちょっと考えが脱線してきちゃってさ。
まあ、なんだ。
今更だけど、アズにはオーナーとしての自覚を忘れないで欲しいって、まあ、そういうことだよ。うん。
最後、叔父さまは明るい声でそう締めくくった。
……少しわざとらしいくらいに。
〔暗転〕
叔父さまも、本当はジャックを凍結するつもりじゃなかったことがわかって、私はほっとした。
そして、ジャックに対して私と同じ思いでいてくれることがうれしかったし、心強かった。
…………でも。
あれは、おそらく叔父さまの本心だ。
“人形に溺れる”
……………。
叔父さま、ごめんなさい…。
私はもう溺れているのかもしれない。
彼の姿、彼の声、彼の眼差し。
すべてが、私を強く惹きつけ、強く揺さぶる。喜びにも、悲しみにも、切なさにも。
私は、人形に恋をしている。
漆黒の人形…ジャックに。
………でもね、叔父さま。
この気持ちは、一生胸の中にしまっておきます…。
叔父さまにも。ジャックにも。
この先もずっとジャックと一緒にいたいと望むなら…それがきっと1番いい。
私は、接蝕前に彼が口にした言葉を思い出していた。
人間の感情が、自分の心に直接触れてくるような感覚は私が初めてだ…ジャックはそう言った。
………………。
………“たぶん”だけど。
彼は私に好意を持ってくれていると思う。
でも、それは。
私が彼に抱いている感情と同じものなのだろうか。
私と同じ感情が、彼の胸にも宿っているのだろうか。
そして、この先宿ることがあるのだろうか。
人形の、彼の胸に。
………そう。
彼は人形なのだ。
人間に似せて作られていても…彼は人間そのものではない。
人形は。
………恋をするのだろうか。
…………………。
……ただ、確かなことは。
私が彼のオーナーであるということ…。
彼のオーナーである限り、彼は私の側にいてくれる。
そんな彼に報いるために。
私は、彼の“良きオーナー”でいなくてはならない。
それ以上の存在になろうとするのは…。
…………きっと、強欲というものね。
私は今、十分幸せだわ…!
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(2)
〔街〕
駅を後にした私は、1人家路についていた。
お仕事で1週間ほど家を空ける叔父さまを見送りに、私は駅に行ったのだった。
叔父さまを見送ったのはよかったけれど。
汽車がずいぶん遅れたために、私の帰りも予定よりかなり遅くなってしまっていた。
ジャック…もしかして心配してるかな…。
?:おい。
聞き覚えのある声に、私は振り返った。
W:…………。
主:ウィル。こんなところで会うなんて奇遇ね。
ウィルに会うのは、この間、エリオットのお使いで来てくれたとき以来だった。
W:……………。
声をかけてきたのはウィルの方だったのに、ウィルは黙り込んだままだった。
主:あれからエリオットの体調はどう?
元気にしてる?
W:…………。
ウィルは黙ったままだった。
…ウィル、どうして答えてくれないの?
もしかして、エリオットの体調がすぐれないのかな…。
W:…………アストリッド。
俺に少し付き合え。
主:え?
…ええ。
私は、ウィルの後について行った。
〔路地裏〕
ウィルが私を連れてきたのは、人気のない路地裏だった。
ウィルはここで、私にどんな用事があるというのだろう?
W:昨日、エリオットが死んだ。
主:えっ…?
ウィル、今、なんて…?
W:死んだんだ、リオは。
主:………うそ…。
W:もともと病弱で、何日も寝込むことも珍しくなかったが…最後はあっけなかった。
信じられなかった。
たしかに“エリオットは体が弱い”とウィルは言っていたけれど。
そんな深刻な病気を抱えているようには見えなかった。
だって、公園で見事な水切りをやって見せたのも、家で楽しくおしゃべりしたのも、つい最近のことなのだ。
肌は青白く、体つきは華奢だったけれど。
目はいきいきと輝き、少年らしい明るさと健やかさに、エリオットは満ちていた。
……少なくとも、私の目にはそう見えた。
そのエリオットが…。
主:…………。
黙り込んだウィルに、もう一度「嘘」と問い直すことはできなかった。
エリオットが短い生涯を閉じたのは、まぎれもない事実なのだ。
ウィルの淡々とした口調は、ただ事実のみを語っている…私はそう思った。
エリオットと会ったのは、2回だけだ。
でも、たった2回と思えないほど、エリオットの印象は強く私の胸に焼きついていた。
水切りに没頭する姿は凛として美しく、無邪気な笑顔は子犬のように可愛らしかった。
そして私に“精霊人形をあまり好きになってはダメだ”と忠告したエリオットは、いやに大人びていた。
まるで、人生の辛苦を知り尽くしているかのように。
そして、別れ際、“さようなら”と言ったエリオット。
あのとき、何か思いつめているようだと思ったけれど。
エリオットには、すでに予感があったのかもしれない。
私に会うことは2度とない…そんな予感が。
私は最後に見た、ウィルと並んで立つエリオットの姿を思い出していた。
…そうだ、ウィル。ウィルは…。
主:…じゃあ、ウィルはまもなく凍結してしまうの?
W:…そういうことになるな。
俺を生かす、俺のオーナーがいなくなった以上、凍結は時間の問題だ。
もっとも、最後の接蝕はあいつが死ぬ直前だったから、もうしばらくはこうしていられるがな。
主:……新しいオーナーを探すつもりはないの?
エリオットの死を十分悼みもしないうちに、こんなことを言うのは不謹慎かも知れない。
でも、精霊人形にとってオーナーの問題は、自身の命そのものに関わる重大な問題だった。
ウィルはこのままただの人形に戻って、いつか誰かに目覚めさせられるのを待つつもりなのだろうか?
それとも、残された時間で新しいオーナーを選んで、新しい生活を始めるつもりなのだろうか?
W:ふっ…新しいオーナー。
……そうだな。俺もできることなら凍結は避けたい。
凍結は精霊人形にとって、死んでいるも同然だからな。
アストリッド。
俺がおまえをオーナーに指名するなら、受けるつもりはあるか?
主:えっ?
ウィルが、私の人形に?
思いもよらない言葉に、私は動揺した。
私が、ウィルのオーナーになるの?
じゃあ、ジャックは?
1人の人間が2体の人形のオーナーになるなんてこと、できるの?
W:……ふん。バカが。
俺がおまえみたいなガキをオーナーに選ぶか。
思い上がりも大概にしろ。
ウィルは、軽蔑の眼差しを私に向けた。
主:……!
その一瞥で私の動揺は一瞬で凍りつき、そして自分をとても恥ずかしく思った。
W:…まあ、おまえに限らず、俺は自分から誰かをオーナーに指名する気なんか、さらさらねえよ。
人間はみんな同じだ。
リオも、あいつも…結局は、人間を信じるようには、人形の俺を信じていなかった。
だからあいつは、1人で行っちまったし。
リオは自分を父親の身代わりだなんて思っていやがった。
俺は、あいつに代わってリオを守らなきゃならないとは思っても。
リオをあいつの身代わりだなんて思ったことは、1度たりともなかったがな。
ウィル……。
W:……ふっ。
と、ふいにウィルは微笑を浮かべた。
凍えるような微笑を。
W:それにだ。新しいオーナーを探すより、精霊人形にはもっといい方法がある。
接蝕をせずとも、人形が生きられる…つまり人間から自由になれる方法がな。
主:え?
W:知りたいか?
氷の微笑を浮かべたまま、ウィルは言った。
主:え…ええ。
W:それは、人間の魂を取り込むことだ。
人間の魂を…取り込む…?
嫌な、予感がする。
W:擬似魂は魂として不完全だからオーナーとの接蝕を必要とする。
だったら、人間の…本物の魂を取り込めばいい。
ただ、人間の魂といっても誰でもいいわけじゃない。
取り込める魂にはいくつか条件があってな。
今その条件をすべて満たしている唯一の人間…それがアストリッド、おまえだ。
主:…………!
そう言うとウィルは懐から短刀を取り出した。
W:これは“断霊剣”(だんれいけん)といって、人間の魂を取り出す剣だ。
この剣もいろいろと面倒な条件があって、使える期間が限られてやがる。
魂の条件、そして剣の条件。
今、やっと両方の条件がそろったというわけだ。
……アストリッド。おまえに、これから俺が何をするかわかるな?
主:え。
W:おまえの魂を使って、俺は自由を手に入れる。
ウィルは。
自由を手に入れる。
私の魂を使って。
私は、ウィルの言葉を胸の中で繰り返した。
私の魂を使うということは。
私の魂を奪うということだろうか。
だとしたら。
魂を奪われた私は、どうなるのだろう…。
W:ふっ…初めて会ったときもとろそうなガキだと思ったが。
まるで緊張感のない顔をしてやがる。
にぶいおまえにもわかるように、もっとはっきり言ってやろう。
おまえは死ぬんだ。俺の自由のためにな。
そう言うと、ウィルは剣を私に向けた。
私は、動けなかった。
今、ウィルが向けている剣…あれで私は刺されるの?
そして、私は死ぬの?
そんなの…。
そんなことって…!
?:ウィル、剣をしまえ。
W:!?
私とウィルは同時に、声がいた方向に顔を向けた。
主:ジャック!
そこにはジャックがいた。
W:チッ。面倒くせえヤツが出てきやがったぜ。
J:……ウィル、もう1度だけ言う。
今すぐその剣をしまえ。
W:…チッ。
舌打ちの後、ウィルは剣を収めた。
………ひとまずは安心して…いいの?
そう思って、私はジャックに目をやった。
J:……………。
ジャックは、無言でウィルを睨んでいた。
W:……………。
ウィルもまた、無言だった。
J:ウィル。
沈黙を破ったのはジャックだった。
J:俺のオーナーに手を出すことは許さない。
たとえ、いかなる理由を以ってしてもだ。
ジャック…。
J:帰るぞ、アストリッド。
主:えっ?…ええ…。
ジャックは私の手首をつかむと、強引に歩き出した。
とりあえず命の危険は去ったようでほっとしたけれど…。
その一方で、立ち去り難い気持ちもあった。
どうして…こんな気持ちなのだろう。
ウィルは私を殺そうとしているのに…。
そう思っていたときだった。
W:待てよ。ジャック。
その声にジャックは足を止めた。
W:そんなどこにでもいそうなガキでも、おまえにとってはオーナーだ。
そいつを守ろうとするのは当然だろう。
だがな、俺もそう簡単にそいつをあきらめるわけにはいかないんでな。
ジャック、おまえも知っているはずだ。
俺たち精霊人形にとって、今が自由を得る千載一遇のチャンスだということを。
J:…………。
W:俺はもう、人間にすがって命を繋ぐなんて生き方はうんざりなんだよ。
そんな性質(たち)だから、人形はいつまでたっても“人形”なんだ。
俺は、このチャンスを利用して人間から自由になる。
ジャック、おまえだって解放を望んだことがないわけじゃねえだろ?
J:…………!
ジャックは答えなかった。
ジャックも自由になりたいって…私から解放されて生きたいって思ってるの…?
W:……ふっ。
まあ、いい。とりあえず、そいつはおまえに預けておくぜ。
うっかり事故死なんてことがないように、そいつの人形としてしっかりお守りをするんだぜ、ジャック。
……俺がそいつの魂を手に入れるまでな。
〔ウィル退場〕
J:……!
そう言うと、ウィルは私たちの前から立ち去った。
路地裏に取り残された私たちは、それぞれに黙り込んでいた。
J:…………。
ジャックは何か考え込んでいるようだったし、私はまだ、今の出来事が整理出来ないでいた。
?:いよいよ動き出したな。
主:!?
J:!
…イグニス。
振り返ると、そこに銀色の人形…イグニスが立っていた。
J:あいつに手を貸しているのか?
I:人間の魂を取り出すあの剣は私が管理している物だ。
だからあれを貸し与えたのは確かに私だが、それ以上手を出すつもりはない。
自分の運命は自分で切り拓くものだ。
イグニスの声は淡々としていた。
つまりこの先、自分は傍観者を決め込むと言っているのだろう。
主:イグニス、教えて。
ウィルは人間から解放されて、自由になりたいって言ったわ。
そのために私の魂が必要だって。
そうやって解放された人形は本当にいるの?
I:………。
イグニスは私を見た。
燃えるようなルビーの瞳と裏腹な、冷たい視線。
と、ふいに彼は背を向けると。
首元を緩め、銀色の長い髪を掻き分け、その項を私に見せた。
主:!!
白磁のような彼の項に、ネジはなかった。
人間の隷属の証であるネジが。
そこにあるのは、うっすらとした十字型の痣だけだった。
主:イグニス…あなたが解放された人形なの?
I:そういうことだ。
イグニスは背中越しにそう答えると、そのまま立ち去ろうとした。
主:待って、イグニス!
I:…?
主:私の魂でウィルを解放できるのなら…、ジャックの解放も私の魂で出来るんでしょう?
J:なっ…!?
I:ふっ…。
娘、おまえはなかなか利口のようだ。
そう。もし、おまえの魂で、おまえの人形を解放できるなら、自分の人形に殺される可能性がある。
………イグニスは勘違いをしている。
私はジャックを怖れてこんな質問をしたわけじゃない。
J:………。〔逼迫した表情〕
ジャックはたぶん、私の質問の意味を正しく理解している。
I:いいだろう。今の質問に答えよう。
他のすべての条件を満たしていても、自分の人形を自分の魂で解放することは出来ない。
解放出来るのは、過去に接蝕をしたことがない人形だけだ。
J:………。〔安堵の表情〕
“私の魂でウィルの解放が出来るなら、ジャックの解放もできるはずだ”
そう思いついた私は、咄嗟にそう尋ねたけれど。
でも、私にその勇気が本当にあっただろうか?
自分の命と引き換えに、ジャックに自由を与える勇気が。
……わからない。
でも、もうこの選択肢は消えてしまった。
私の魂でジャックを解放することは出来ない。
イグニスの答えは、私に迷う余地さえ残さなかった。
I:ジャック、ウィルは本気だ。
おまえもまた、自分のオーナーを本気で守ろうとするなら、どちらかが死ぬかもしれんな。
主:!
J:………。
I:解放を求めて死ぬも、オーナーの盾となって死ぬも、偏に精霊人形ゆえに…か。
〔イグニス退場〕
〔主人公の部屋〕
あの後、帰る道すがら私はジャックにいくつかのことを尋ねた。
解放のこと。
ウィルのこと。
そしてジャック自身のこと。
だけどジャックは、私が知りたいことについてはっきり答えてはくれなかった。
家に着いてからもジャックは私を避けていた。
ジャックは、精霊人形の問題に私を巻き込みたくなかったのかもしれない。
でも、そういうわけにはいかないだろう。
ウィルはもう1度、私の前に現れる。きっと。
……ウィル。緋色の人形。
皮肉屋で、ちょっと意地悪で。
そして、人間の友になりたいと願い…その願いに破れた人形。
ウィルは、人間にすがって生きるのは、もううんざりだと言った。
ジャックは…私の精霊人形はどう思っているのだろう…。
ウィルの言葉を思い出す。
「ジャック、おまえだって解放を望んだことがないわけじゃねえだろ?」
ジャックは、否定しなかった。
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(3)
<翌日>
〔廊下〕
主:おはよう、ジャック。
J:…………。
ジャックは無言だった。
最近は挨拶とまではいかなくても、返事くらいはしてくれるのに。
J:………………。
ウィルは今後、誰の所有物にもなるつもりはないだろう。
ジャックは唐突に話し出した。
J:だとすれば、適当な人間をオーナーに選んで、時間を確保しながらおまえを狙うなどということはしないはずだ。
つまり、あいつは自分の凍結までに勝負をかけてくるだろう。
……アストリッド。
主:?
J:しばらく外出は禁止だ。
主:え。
J:あいつは、長くても2週間後には凍結する。
それまで身を隠していれば、それで終わりだ。
とりあえずはこの屋敷が1番安全だろう。
騒ぎにして、精霊人形の存在を人間に知られるのもまずいという理由もあるが、よく知っている場所の方が俺もおまえを守りやすい。
ただ、問題は俺の休眠時間だ。
この時間帯、俺がおまえを守ることは不可能だ。
もっとも、俺がいつ休眠に入るのか知らない以上、あいつがその時間を狙っておまえを襲うことはできないはずだが…。
この件については、何か対策を練っておかねばなるまい。
………とにかくだ。
おまえは、外出をするな。
わかったな?
〔ジャック退場・ドアの開閉音〕
それだけ言うと、ジャックは私の返事も聞かずに行ってしまった。
〔庭〕
昼食を済ませた私は庭に出ていた。
ジャックに外出は控えるように言われていたけれど、お庭くらいは出ても大丈夫よね…。
自分が命を狙われているなんて、まるで実感がわかなかった。
晴れわたった空は高く、今日は風さえもない。
何もかもが、いつも通りだった。
ぼんやり庭をながめながら、私は昨日のことを…ウィルの言葉を思い出していた。
「リオも、あいつも…結局は、人間を信じるようには、人形の俺を信じていなかった」
………おそらくウィルは。
お父様のときは叶えられなかった願いを、せめてエリオットとは叶えたいと思っていただろう。
“人間の、本物の友になる”という願いを。
そしてその願いは、エリオットの願いでもあった。
エリオットは、ウィルと本物の友達になりたいと望んでいたからこそ。
オーナーという、精霊人形にとって特別な立場にいることに悩んでいるようだった。
2人は同じ願いを抱いていた。
それなのに、2人の心はすれ違っていた。
そして、すれ違ったまま。
エリオットは帰らぬ人となった。
エリオットのお父様と同じように。
J:外に出るなといっておいたはずだが。
いつしか私の背後にジャックが立っていた。
主:あの、お庭くらいいいかなって思って…。
J:屋敷に戻れ。
主:ごめんなさい…。
ジャックは本気で私の心配をしてくれている。
なんだか浮ついた気持ちでいる自分が申し訳なかった。
?:おっと、そうはさせないぜ。
J:!
主:ウィル!
W:命を狙われてるってのに、のこのこ自分から出てくるとは、おめでたいにもほどがあるぜ。
まったく、能天気なオーナーだと人形は苦労するな、ジャック。
J:…………。
俺のオーナーについて、おまえにとやかく言われる筋合いはない。
おまえはなにかというと俺のオーナーを悪く言うが、おまえはいったいアストリッドの何を知っているというのだ?
知りもしないことをさも知っているかのように言うことほど、自分の無知をさらすことはないぞ、ウィル。
W:……ふん。くだらねえ。
俺はそいつが純真無垢だろうが、極悪非道だろうが興味ねえんだよ。
用があるのは、そいつの魂だからな。
そう言って、ウィルは私を見た。
W:ジャック。取引だ。
J:…?
W:ようするに、おまえは凍結が嫌なだけだろ?
だったら、おまえに新しいオーナーを用意すりゃ、問題ないはずだぜ。
ジャックに新しいオーナー…。
W:本来オーナーの選定に、人形の関与は禁じられている。
ま、そんな規則はさておきだ。
俺は、どんな人間が誰のオーナーになろうとたいして興味もねえし。
それに、そんなことに首を突っ込むと、たいがいロクなことにならねえから、くれぐれも関わるまいとこれまで思っていたが…。
今回はおまえのものを譲れと言っているんだ。俺もそれぐらいの義理を果たす用意はあるぜ。
ま、律儀なだけが取り柄の“根暗”だけは、今となっちゃ何の効力もない古い規則を守りたがって、文句の1つも言うかもしれねえがな。
J:……………。
W:ジャックは、そういう、とろそうな女のガキが好みか?
まあ、そんなガキ、いくらでも
J:断る。
ジャックはきっぱりそう言った。
W:ふん…意外だな。おまえがオーナーに執着するとはな。
J:…………。
W:まあいい。
それがおまえの答えなら。
力ずくでそいつの魂を奪うまでだ…!
そう言ったウィルの手には、剣が握られていた。
J:…………。
ジャックの手にもいつしかナイフが握られている。
修理の日、ルディがミニチュアを本物にしてみせたあのナイフが。
剣先を互いに向けたまま、2人はしばらく睨み合っていた。
でも、ジャックがわずかに動いたのを合図に、それは始まった。
ぴたりと目を合わせたまま、2人は同時に、並んで走り出した。
速い!
2人はまるで、漆黒と緋色の獣のようだった。
2人は、刃をぶつけ合い、離れ、再びぶつかり合った。
鋭い鍔迫り合いの音と、地面を蹴る乾いた音が辺りにが響く。
人形たちのその素早さ、そのしなやかな肢体の動きに、私はいつしか目を奪われていた。
人形たちの剣術は、人間のそれを明らかに凌駕していた。
少し前、叔父さまから聞いた話がある。
精霊人形は、自身に宿る精霊の力を使うことで、特異な能力を発揮することができるのだと。
その1つが、ルディが以前私に見せた不思議な力だったけれど。
今はまた、精霊人形が持つ精霊に力が別の形となって発揮されている、ということなのだろう。
私は、人間を超えた精霊人形の力に、ただ目を見張るばかりだった。
W:…!〔苦しげな表情〕
J:……。
!
ジャックの方が、押してる…!
最初、2人は互角に見えた。
でも、今は違う。
ジャックの方が、ウィルより強いのだ。
このままじゃ…。
「どちらかが死ぬかもしれない」
イグニスの言葉が、私の脳裏に甦った。
「精霊人形も、決して不死身ではない」
ルディの言葉も。
死ぬ。精霊人形が死ぬ。
精霊人形が、精霊人形の手によって死ぬ。
と、そのとき。
一際高い金属音が、空に響いた。
W:っ!!
ウィルの剣が、ジャックのナイフによって弾き飛ばされていた。
武器を失ったウィルの喉元に、ジャックのナイフの切っ先が向けられる。
もし今、ウィルが私をあきらめると言えば、ジャックは彼を許すだろうか?
…ううん。それはない。
武器を奪われ、刃を喉元に突きつけられていてなお、ウィルはその目に戦意を滾らせていた。
戦意を失っていないウィルを、ジャックが許すことはないだろう。
ウィルは、今日ここで死んでもかまわないと思っているのかもしれない。
人間にすがってしか生きられない命を生きるより、死の危険を冒しても自分の意志をつらぬいて生きたいと。
じゃあ、このまま…?
………………。
……………………。
私には、昨日から考えていたことがあった。
今、私は、その気持ちを固めた。
主:ジャック!
私は叫んだ。
その声に2人が同時に私を見る。
…大丈夫。ちゃんと…言える。
主:ジャック。ナイフを収めて。
J:…!?
アストリッド、おまえは何を言っているのだ…?
主:もう1度言うわ。
ジャック、ナイフを収めて。
私は、出来る限り毅然とそう言った。
J:………………。
おまえがそう命じるなら……仕方あるまい。
ジャックは不服そうだったけど、とにかくナイフを収めてくれた。
W:…………?
ウィルは訝しげにこのやりとりを見ている。
私は1つ深呼吸をした。
大丈夫。ちゃんと言える。
主:ジャックも、ウィルも聞いて。
私は2人の顔を見た。
主:私の魂をウィルにあげるわ。
J・W:!?
主:私の魂を、ウィルにあげる。
私は、さっきよりゆっくりと言った。
J:…アストリッド。
おまえは、魂を譲るということを正しく理解しているのか?
魂を失うということは、死ぬということだぞ…!
主:……………。
わかってる。わかってて私は言ってるの。
ウィルに魂をあげるって。
J:……俺は、おまえをどう理解すればいいのだ?
人間は時に、常軌を逸した行動をとるものだが…おまえは今、錯乱しているのか?
そうでもなければ説明がつかないではないか…!
主:ジャック。私は、気まぐれでこんなことを言ってるんじゃないわ。
これはよく考えた上での結論なの。
J:……!
……しかし、そんなことを許すわけには断じていかん。
おまえは俺のオーナーなのだ。おまえが死ねば、俺も死ぬ。
それをわかっていて、おまえは言っているのか!?
………ありがとう、ジャック。
私の命を惜しんでくれるのね。
“凍結”は“死”に似ていても、“死”そのものではないわ。
W:ふっ。俺に魂を譲るだと?
度が過ぎたお人好しか?それとも、悲劇のヒロイン気取りか。
……まあ、理由なんてどうでもいいがな。
しかし、いくらおまえがその気でも、そこのメガネが許さねえだろうよ。
人形にとって、オーナーは代わりがきくのも事実だが、本来は自分の命そのものと思って守るものだからな。
J:その通りだ。ウィル。
俺は、命を懸けて俺のオーナーを守る。
W:…「命を懸けてオーナーを守る」?
……はっ。
ジャック、テメェのことしか頭にねえおまえが、そんな殊勝な考えでこれまでオーナーに仕えていたとは知らなかったぜ。
…………それとも、そいつだけが特別なのか…。
まあいい。
ようするに、どっちかがスクラップになるまでやるしかねえ…そういうことだろ?
ウィルは会話を続けながらも、目線は自分の弾かれた剣を探していた。
おそらくジャックの隙を窺っているのだろう。
それに私の言葉も信用していないのかもしれない。
主:大丈夫よ、ウィル。もうこれ以上2人が争う必要はないわ。
だって精霊人形には“あの日”があるもの。
J・W:………?
J・W:!!
ジャックの顔色が変わった。
ウィルはニヤリとした。
2人は同時に私の考えを察したようだった。
W:ふっ。確かにおまえが協力するなら、俺は“あの日”を利用できるな。
“あの日”それは“接蝕日”。
人形が人形に戻る日。
主:ウィル、ジャックの接蝕日は明後日、午後11時が限界時間よ!
私は早口で叫んだ。
限界時間。器から魂の流出が始まる時間だ。
人形とオーナーはこの時間を接蝕の目安にしている。
…もう、後戻りはできない。
J:…アストリッド…何をっ…!!
W:いいだろう。おまえを信用してやる。
明々後日の夜明け、レインフォーヴの丘に来い。いいな…!
〔ウィル退場〕
私にそう言葉を投げると、ウィルは軽く身を翻して剣を拾い、そのまま私たちの前から走り去った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
(4)
〔公園〕
M:私、何か飲み物を買ってくるわね。
あ、アストリッド、あなたはここで待ってて。
あなたの分も買ってくるから。
〔モニカ退場〕
モニカを見送って、私は1人ベンチに座った。
今日この公園の広場ではミニコンサートが催されていた。
誘ったのは私の方。
モニカは突然の誘いに少し驚いていたけれど、喜んで付き合ってくれた。
今はもうコンサートは終わり、広場に残っている人は数えるほどだった。
ウィルがやって来たのは昨日のことだ。
あの後。
ジャックは、とても難しい顔をしていた。
そして、私を正面から見据え、黙り続けていた。
ジャックは普段からあまりしゃべらないけれど、彼の沈黙をこれほど息苦しく感じたことはなかった。
M:お待たせ。はい。
主:ありがとう。
私はモニカからジュースを受け取って、一口飲んだ。
M:……ねえ、アストリッド。
あなた…何か悩み事があるんじゃない?
主:え?
私はぎくりとした。
M:もしそうなら、お願い、私に打ち明けて。
私がどのくらい役に立てるかわからないけど…でも、お友達でしょ?
モニカ…。
M:もしかして、亡霊みたいなあの人のことじゃない?
ねえ、そうでしょ!?
主:…違うわ。ジャックは関係ない。
嘘。…でも、本当のことなんて言えない。
主:昨日よく眠れなくて。
やだな、私、そんなに疲れた顔してた?
もう、そんな心配しないで。本当になんでもないんだから。
私はモニカに笑って見せた。
M:……………。
わかったわ。でも、これだけは忘れないで。
あなたは私の大切なお友達だってこと。
だから話をしたい気持ちになったら、いつでも打ち明けてね。
主:…ありがとう。
モニカはたぶん、私が隠し事をしていることに気づいてる。
気づいていて、今はそっとしておいてくれると言っているのだ。
……ありがとう、モニカ。
最後にこうして会えて、本当によかった。
〔リビング〕
公園から戻った私はリビングにいた。
今、お屋敷は静まり返っている。
叔父さまはお仕事で出張中。
ジャックは、朝から姿を消していた。
私の意向に逆らって。
魂の譲渡を阻止しようとしているジャックは、たぶん。
私を恐れている。
彼を強制凍結できる私を。
もっとも接蝕日でもないジャックから、力ずくでをネジを抜けるとは思えなかったけど。
でも、「強制凍結する力」を持った私が側にいては、彼は落ち着かなかったに違いない。
そしておそらくジャックは今、ウィルを追っている。
自分の限界時間が来る前に、ウィルを捕まえることが出来れば…そう考えているのだろう。
武術ではたぶん、ジャックの方が上だ。
……だけど。
もしかしたらジャックは、ウィルを倒すというよりも、足止めをする方法を考えているのかもしれない。
ウィルが凍結するまで彼を私に近づかせなければ、それでジャックの目的は達成出来るのだから。
そしてそれは、ウィルも同じで。
命まで奪わなくてもジャックを抑え込められさえすれば、望みのものは手に入る…そう考えて彼に挑んだのではなかったか。
相手も自分と同様、命がけで臨んでくることを知っていたからには、本当に“最期”までやらざるをえない事態も、状況によってはありえると2人は考えていたはずだ。
だけど、出来ればそんなことはしたくないと思いながら、2人は剣を交えていたに違いない。
だって、同じ精霊人形同士。
人間との関係とはまた別の、実の兄弟のようなかけがえのない仲間だわ…。
争う人形たちに2人の意志の固さを感じた私は、本当にどちらかが死んでしまうのではないかと、昨日は居ても立ってもいられない気持ちだったけれど。
冷静になって考えれば、器の損傷は避けられなかったにしても、本当にどちらかの命が失われる危険は小さかったのかもしれない。
……でも。仮に、この想像が当たっていたとしても。
やっぱり、あのときジャックを止めてよかった。
もうあれ以上、私は精霊人形同士が傷つけ合うところを見たくなかったし。
もしあのまま続けていたら、ジャックによって絶たれてしまっていたはずだ。
ウィルの望みも。私の願いも。
…………………。
ウィルを封じる方法はともかく。
身を隠したウィルをこの2日間で見つけられるかが、ジャックにとって最大の問題のはずだった。
2人がどこで何をしているかはわからない。
今、私に出来るのは、ただ待つことだけだった。
〔夜・主人公の部屋〕
手紙を書き終えた私はペンを置いた。
手紙は叔父さまに宛てたものだ。
叔父さまの心配は的中してしまった。
私は、人形のために命を捨てようとしている。
叔父さまが今いないことは、私にとって幸運だった。
いないからこそ、私は魂を人形に差し出すことが出来る。
叔父さまは、ジャックとは…私の人形とは違う。
叔父さまがいたら、きっと私は止められていただろう。
手紙にはこれまでの経緯と精霊人形への思いを書いた。
……どうか私の気持ちが、ちゃんと叔父さまに届きますように。
そう祈って、私は封をした。
<翌朝>
〔リビング〕
私は1人で朝食の用意をし、1人で朝食をとり、今1人でお茶を飲んでいる。
ジャックはまだ戻らなかった。
ジャック…。
…会いたい…。
解放のことも、ウィルのことも、明日には自分がこの世からいなくなるということも、不思議なくらい今は頭になかった。
ジャックに会いたい。
…一目でいいから、ジャックに会いたい…。
その気持ちだけが、私の胸に募っていた。
最後にジャックに会うことが出来れば…私はきっと幸せな気持ちで、すべてを諦めることが出来る。
でも、たとえジャックが私の元に戻らなくても。
一目会うことが叶わなくても。
私はウィルとの約束を果たさなくてはならなかった。
〔夜・リビング〕
夏の夜は短い。
でもその分、濃密な闇が辺りを包んでいた。
限界時間の午後11時まで、すでに1時間を切ろうとしていた。
ジャックは大丈夫なのだろうか?
臨界時間が近いこの時間帯、魂の定着力はかなり低下しているはずだ。
つまり、今、ジャックの精神は著しく不安定になっているということになる。
でも、“精霊人形の精神が不安定になる”とは、どういう状態なのだろう。
接蝕日のジャックを思い出してみる。
たしかに、どこか頼りなげ…というか、不安げではあるけれど。
あの日のジャックも、普段とそんなに違うわけではない。
だけど、こんなにぎりぎりまで接蝕をしないことはこれまでなかった。
接蝕は臨界時間およそ8時間前からすることができた。
だからこれまでは、いつも時間に余裕を持って接蝕を行ってきたのだ。
やはり、凍結まで時間に余裕があるときと、ないときとでは違うのだろうか?
だとしたら…。
ジャックを捜しに行くべきなの?
……………。
…ううん、それはやめたほうがいい。
だって、もしもジャックが帰ってきたとき、私がここにいなくちゃダメだもの…。
…でも、もう時間が…。
ジャック、お願い、早く帰ってきて…!
〔ドアの開閉音〕
主:ジャック!?
私は玄関へ駆け出した。
〔玄関(内)〕
J:…………。
主:ジャック!
…よかった。心配していたのよ…。
J:…………。〔無表情〕
私が声をかけても、ジャックはただぼんやりしていた。
まるで、心が宙に浮いているかのように。
…これが“精神が不安定になる”ということなのだろうか?
主:すぐに始めましょう。ね?
言って私はジャックの手を取った。
だけど。
J:…!
彼は、強く私の手を振り払った。
主:ジャック…!?
J:…アストリッド…。
ジャックは、戸惑う私の肩を両手でつかんだ。
主:!?
痛い。
予想外の力でつかまれ、私は驚いた。
J:…行くな、アストリッド。絶対に行くな…!
言いながら、ジャックは私を強く揺さぶった。
主:ジャック…。
ジャックは、ウィルを捕えるという目的を果たせなかったのだ。
果たせないうちに自分の時間が迫り、私の元に戻ってきてしまったのだ。
魂の命じるままに。
J:アストリッド、何故だ…!何故おまえは、死ぬなどと言うのだ…?
こんな不条理を…受け入れられるわけがない…!
おまえのすべてはまだ謎のままだ…。
答えろ…!アストリッド。
何故おまえが、俺の心をこんなにも掻き乱すのか?
何故おまえを失うことを、俺はこんなにも恐れるのか?
答えろ…答えろ、アストリッド!
言いながらジャックは、私を乱暴に揺さぶった。
目は…本当に私を見ているのだろうか?
まるで何も見ていないようで、怖かった。
主:ちょっ…ジャック…!
ジャックっ!やめてっ!!
J:……!
私の叫びに、ジャックの動きがぴたりと止まった。
私の肩を痛いほどにつかんでいた両手のひらから力が抜け、彼の両腕はだらりと下げられた。
無言で私をぼんやりと見つめているジャックは、さっきまでの激昂が嘘のように静まり返っていた。
主:………?
正直、意外だった。
たった一言で、あんなに取り乱したジャックを止められるなんて…。
そう考えて私ははっとした。
そうだ、ジャックは今、いつものジャックではないのだ。
今のジャックは、接蝕を求める“魂の意志”に心の大部分を支配されている。
今、オーナーである私の言葉は、彼を自分の意のままに出来る“力”を持っているはずだった。
主:ジャック…落ち着いて…。
これから接蝕を始めるわ。だからお願い、屈んで。
J:……っ!
ジャックは屈もうとはしなかった。
器はオーナーを強く求めているはずだ。
早く接蝕しなければ、精霊人形はただの人形に戻ってしまう。
だけど、ジャックの意志はそれに抗っていた。
ここで接蝕をしてしまったら、もう自分は何も出来ない。
混濁した意識でもまだそれがわかるのだろう。
ジャックは、私を引き留めようとして苦しんでいた。
…私に出来ることは、1つしかなかった。
主:……ジャック。
…屈みなさい。
命令口調は嫌い。特に精霊人形には。
でも。
J:……!
私はもう1度言った。
主:屈みなさい、ジャック!
J:………。
ジャックは、苦悶の表情のまま、ぎこちなく体を屈め…そして片膝を床についた。
銀色の瞳が私を見上げる。縋るように。
主:………!
胸に、痛みが走った。
胸が、痛くて…言葉が、言葉にならなかった。
…でも、今。今、伝えなきゃ。
ジャックに私の気持ちを…。
主:………ねえ、ジャック…聞いて。
精霊人形の復活は叔父さまの願いだったけど…本当はそれだけじゃなかった。
私はここにやってくる前…ちょっといろいろあって、人が信じられなくなっていたの。
それまでは人を信じるのは当たり前のことだと思っていたけど、それが出来なくなってた。
だから、もし、私のすべてを受け入れ、私にすべてを差し出し、私のためにひたすら尽くしてくれる存在がいたら、どんなにいいだろう…そう思って私はあなたを目覚めさせた。
でもね、ジャック。
それは間違ってた。
だって、精霊人形は“心”を持ってたもの。
人間のそれと同じように、誰も支配出来ない“心”を。
確かに人形の魂を握っているオーナーは、人形の行動を支配出来る。でも、それは“心”そのものじゃない。
だけど…。
だけど、精霊人形が心を持っていたからこそ…私はあなたが…、ジャックが好きだった。
J:…………。
主:ごめんなさい、ジャック。
私も結局はオーナーの立場を利用して、あなたを服従させてる。
こんなことをさせられて…怒ってるわよね。
でも…それでももし、私の最期のお願いを聞き入れてくれるなら…。
ジャック、この先はどうか叔父さまの人形として生きていって…。
J:…………。
ジャックは、ただぼんやりと私を見上げていた。一切の感情を失った、虚ろな瞳で。
……そんな彼の耳に、心に。
私の言葉は…思いは届いただろうか…。
主:ジャック…ありがとう。
あなたに会えて、本当によかった。
私は、ジャックの冷たい額にそっと口づけ。
そして、左手のひらを彼の額に押し当てた。
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