【分岐B】エピローグ
(1)
〔屋敷・外観〕
出張を終え、屋敷に帰った僕を待っていたのは。
動かなくなったアストリッドと、心を閉ざしたウィルだった。
僕は、2人に何が起こったのかをウィルの話とアストリッドの手紙から知った。
“解放”が執行されたあの日から、ほぼ1年。
季節は巡り、再び夏がこの街を訪れている。
ホブルディを憎むまい。
そう自分に言い聞かせて、僕は今日まで過ごしてきた。
彼に…精霊人形に魂を与えたのは、アストリッド自身の意志だったのだ。
彼を憎むことは、彼女の意志に反することになる。
……そう頭では理解できるのだけれど。
でも、後悔とやりきれなさは、1年が経とうとしている今も消えることはなく、胸にこびりついたままだった。
〔リビング〕
僕がこの屋敷に戻るのはおよそ3ヶ月ぶりだ。
邸内は、何もかもが3ヶ月前のままだった。
本1冊、紙切れ1枚、出しっぱなしのものは出しっぱなしのままだったし。
クッションの傾きも、ソファに投げ出された膝掛けの乱れも、たしかに僕が最後に残した形のままだった。
僕は手荷物を置くと、まず地下室に向かった。
〔暗転〕
地下室、と言っても、ウィルが眠っていた精霊人形工房ではない。
“あの日”以後、僕は地下室を増築していた。
僕が目指したのは、リビングを模して作った、この新しい地下室だった。
〔地下室〕
W:………………。〔無表情〕
S:ただいま、ウィル。
W:………………。
僕は応えないとわかっているウィルに声をかけた。
彼の前に立つと僕は思い出さずにいられない。
“あの日”以後の数日間を。
〔回想・リビング〕
ウィルはやがて休眠から目覚めた。
でも、アストリッドが目を覚ますことは2度となかった。
彼女を失ったウィルは、さながら抜け殻のようで。
ただ無為に時を過ごすのみだった。
僕だってアズを失った悲しみは大きかった。
アストリッド。僕のたった1人の姪。1番濃い血縁者。
自分本位で無責任な僕が、唯一自分を犠牲にしてでも守らなくてはならない人間…それが、アストリッドだった。
アストリッド。僕の、可愛い小さな女の子。
最初に君を見たのは、姉さんの腕の中だった。
生まれて間もない君を不思議な気持ちで眺めていたことを、僕は今も覚えている。
君を抱き上げたり、おぶったり、手を引いたりしたのは、もうずいぶん昔のことだ。
会うたびごとに君は大きくなって。
……やがてそんなこともしなくなった。
それからどれくらいたったのだろう。
君はいつのまにか、幼い女の子から美しい少女に成長していた。
僕は知らなかったよ。
普段物静かで、聞き分けの良い君の胸に、我が身を焼き尽くすほどの情熱がしまわれていたなんて。
………………。
でも、ウィルが受けた衝撃はおそらく僕以上だったのだろう。
あの日以来、ウィルはおそろしく無口になり。
アストリッドの部屋に閉じこもりきりになった。
アストリッドの体は、数日間こそ彼女のベッドに安置されていたけれど。
今はもう、しかるべき場所で眠っている。
アストリッドがいなくなったアストリッドの部屋で、ウィルは毎日過ごしていた。
精霊人形の彼は、僕には見えない、アストリッドの残像のようなものをそこで見ていたのかもしれない。
〔暗転〕
そして凍結を明日に控えた夜。
〔暗転明け・玄関(内)〕
W:……………。
S:ウィル、出かけるのかい?
W:……ああ。
S:どこへ?
W:……教会へ。
〔ウィル退場・ドアの開閉音〕
………………。
……おそらく。
ウィルの望みは凍結だ。
今の彼が、新しいオーナーを求めているとは到底思えなかった。
そして、僕も。
アストリッドは、僕がウィルの新しいオーナーになることを望んでいた。
でも、僕は。
その願いを叶えることに消極的だった。
ウィルは好きだ。いい奴だとも思う。
今回の出来事で、僕以上に傷ついているウィルを憐れむ気持ちだってある。
同じ愛する者を失った者同士、僕たちは支え合うべきなのかもしれない。
だけど。
精霊人形は、“魔性”なのだ。
人間がその手で作り出しておきながら、最後には自らの手で葬り去った、人の形をした“魔性”。
その衰えることのない美貌も、その神秘の力も…そして、その脆ささえも。
人心を溶かし、虜にせずにいられない魔性なのだ。
人間はその魔性の前に無力で…ただ食い殺されるしかない。
アストリッドのように。
……………。
……“精霊人形に食い殺された”なんて。
そんな風に言ったら彼女は悲しむだろう。
だけど精霊人形に関わったがために命を落としたことは、曲げようのない事実だ。
彼女はまだ17だった。
僕は疲れていた。
ウィルを放ってはおけないという気持ち。
精霊人形ともうこれ以上関わりを持ちたくないという気持ち。
1つの心に相反する2つの気持ちが存在すること。
そのことに僕の疲労はいっそう募った。
凍結を望むウィル。
自分の心を決めかねている僕。
ウィルは、しばらく眠るべきなのかもしない。
命の宿らないただの人形に戻れば。
……彼の苦しみも止まるだろう。
………………。
ならばせめて、その魂だけは保護しなくてはいけない。
今は休息が必要だとしても、彼の“生”そのものが失われることがあってはならない。
そう…今の僕にできるのはそれだけだ。
精霊人形のオーナーは、今の僕には荷が重すぎる…。
僕は、ケージ…擬似魂が入っていたランタンのことを思い出した。
あれを確認しておかなくては。
接蝕ができなかった精霊人形の疑似魂は、器から流失し、最後は霧散してしまう。
それを防ぐには、流失した疑似魂をケージに納める必要があった。
僕は地下室へと向かった。
〔地下室〕
S:…………!
僕が地下室で見たのは。
無残に打ち壊されたケージだった。
S:……どうして…?
そうつぶやいて
S:…!
僕はあることに思い当たった。
……嫌な予感がする。
僕はすぐさま教会に向かった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
(2)
〔教会・外観〕
夜の教会は静まり返っていた。
寄宿所には人がいるのだろうが、この辺りに人間の気配はまったく感じられなかった。
僕は鐘楼へと足を向けた。
おそらくそこに彼はいるはずだ。
〔鐘楼・釣鐘室〕
W:……………。
S:ウィル!
W:…サイラス…!
…やっぱり。
幸か不幸か僕の予想は的中した。
とにかく今は“間に合った”ことを喜ぶべきか。
W:……………。
ウィルは、疎ましげに僕から視線をはずした。
S:…ここは街で1番高い場所だ。
ここから体を投げれば、人形の身といえども、ひとたまりもないだろうね。
W:!
……図星か。
W:…あいつは。
「あいつ」…アストリッドのことか。
W:あいつは、俺を好きだと言った。
あいつに、いつも憎まれ口ばかりきいていたこの俺をだ。
……俺も。
俺もあいつが好きだった。
………………。
………ああ。
これはウィルの“告白”だ。
本来はアストリッドに贈られるはずの言葉が。
受取主を失った今、代わって僕に吐き出されている。
W:でも俺は、それを素直に認めることができなかった。
人間と人形。その壁を越えて、心を通わせることなどできやしない。
人間は結局、人形に人形らしくあることを求めている。
だったら、人形が人間と対等であろうとするのは虚しいだけだ。
ウィルの口ぶりは淡々としていた。
でも、その口調で語られる彼の人間への評価は、あまりに寂しいものだった。
W:ふっ…つっぱったところで、俺も所詮は人形の身。オーナーの命令とあれば従いもするが。
そうでなけりゃ、干渉することも、されることもまっぴら御免…いつしかそれが俺のやり方になっていた。
俺はそのやり方をあいつにも貫こうとしていた。
……だが。
あいつの前でそれはただの“ポーズ”にしかならなかった。
無関心を装いながら…俺の心はいつもあいつで一杯だった。
リビングで、ただ窓の向こうをながめている姿。俺の隣で皿をみがいている横顔。廊下ですれ違って、遠退いて行く後姿。
そんななにげないあいつの姿が、俺の目にはこの上なく美しいものに映った。
この美しいものを守るためなら…あいつのためになら、俺はこの器をあいつの剣にも盾にもする覚悟だった。
……もっとも、その覚悟も、あいつの決意の前では何の役にも立ちゃしなかったがな。〔自嘲的に〕
あの日ウィルは、何としてでもアストリッドを引き止めようとした。
でも、彼女の所有物である彼は、彼の君主であるアストリッドの前で無力だったのだ。
そのとき彼は、どれほど無念だったことだろう…。
W:だが、そう思う一方で。
あいつのすべてを奪い取って、自分のものにしたい…そんな、衝動的で凶暴な感情もあった。
後に何も残らなくていい。ただその一瞬を手に入れたい。
俺がこれまで存在することさえ知らないでいた答えが、震え上がるような恐怖と紙一重のその場所にあるような気がした。
愛といっても、こんな矛盾だらけで、身勝手で、持て余すような気持ちは初めてだった。
おそらく、こういう感情を人間は“恋”と呼ぶんだろう。
ウィルが、作られてから何年経っているのか知らないけれど、人間の僕よりずっと長い時間を生きてきたことは間違いないはずだ。
でも。
ウィルにとって、“恋”は初めての経験だったのだろうか…?
W:だが俺は、その感情をありのままあいつに伝えることはできなかった。
そんな感情を持つなんて“俺らしく”なかったからな。
……ふっ。
まったく…天邪鬼な大バカ野郎だぜ。
ウィルの唇が、笑いの形に歪む。
それは、自分で自分を嘲る、悲しい微笑だった。
W:……………。〔自嘲的な微笑から、思い詰めているような表情へ変化〕
でも、その微笑はすぐに消え。
ウィルは口をつぐんだ。
W:……………。
しばらくの沈黙の後。
W:……サイラス。
ウィルは再び口を開いた。
W:…俺にかまうな。
俺はもう、誰の指図も受けない。
この先俺は、すべてのオーナーを拒否する。
俺のオーナーは、ただ1人、アストリッド、あいつだけだ。
…つまり。
彼は、今日を以って人生にピリオドを打つと言っているのだ。
自分で自分の器を破壊すると。
………彼の絶望は、どれほど深いのだろう。
………………。
……でも。
僕は。
S:ウィル…そんなことをしても、アストリッドは喜ばない。
むしろ、それは彼女の心を踏みにじる行為だ。
W:……………。〔目を逸らしている〕
S:君は、彼女の選択は間違っていたと思っている。そして、彼女を責め…。
自分自身をも責めてもいる……そうだろ?
W:……………。
S:正直、僕だって同じ思いだ。
………だけど。
彼女は踏み切ってしまった。もう、決して取り戻すことはできない。
だったら、その意志を受け入れることだけが、残された僕たちにできることじゃないのか?
W:……………。
ウィルは僕から目を逸らしたままだった。
くだらない説教だと思っているのかもしれない。
S:アストリッドも、君に恋をしていたと僕は思う。
だけど、彼女は自分の恋より精霊人形の救済を優先した。
人間に虐げられ、傷つき、泣いている、精霊人形を救うことをね。
W:……………。〔サイラスを見る〕
S:それを君は怨みに思うかい?
君との恋愛より、自分の未来より、精霊人形の救済を選んだアストリッドを。
W:……!〔息を吞む〕
S:もし、君を裏切ったアストリッドを今も変わらず愛しているなら。
彼女を許して…その真心を受け止めて欲しい。
W:……………。〔苦悶の表情〕
S:………なあ、ウィル。
僕はアズを失った上、君まで失うなんて耐えられない。
僕は、ウィルを心配する心の隅で、おそらくこうも思っていた。
精霊人形の命は、人間であればどうにでもできると。
……今は眠らせても、いつかまた、僕の一存で命を与えることができると。
僕のそんなさもしい考えを、彼は見透かしていたのかもしれない。
S:ケージが壊れた以上、僕がオーナーとなって君を生かすことはできない。
でも、たとえ君がただの人形に戻ったとしても、僕は君にあの屋敷にいて欲しい。
僕が帰る、あの場所に。
W:……………。〔苦悶の表情〕
S:……………。
僕の言葉は、彼の心に届いているのだろうか?
まさに、すべてを手放そうとしている彼の心に。
S:……そうだ…。
そうだ、ウィル。君に1つ約束をしよう。
W:……?
〔回想明け・地下室〕
……………。
僕は改めてウィルに目をやった。
W:……………。
S:ウィル。ずいぶん待たせたけど、もうすぐだよ。
僕は地下室を出た。
〔リビング〕
僕は呼び鈴が鳴るのを待っていた。
今日は、“あれ”が届くはずだ。
それに合わせて、僕はここに帰ってきたのだ。
〔呼び鈴〕
僕はソファから立ち上がった。
〔暗転〕
〔ドアの開閉音・荷物を置く音〕
〔暗転明け・リビング〕
僕は、今届いたばかりの荷物を解いた。
S:……………。
僕はその中身に言葉を詰まらせた。
“それ”を見るのは、今日が初めてではない。
でも、何度見ても。
僕は“それ”を見ると言葉を失ってしまう。
“それ”を抱え、僕は地下室へ向かった。
〔地下室〕
W:……………。
僕は“それ”を抱えたまま、ウィルに話しかけた。
S:ウィル。約束通り、彼女を連れて帰ってきたよ。
抱えてきた“それ”を、僕はウィルの隣に座らせた。
主:………………。
W:………………。
“それ”とは、アストリッドを模して作った、少女人形だった。
この人形は、当代随一と言われている人形師に僕が作らせたものだ。
もちろん、これは“ただの”人形だ。精霊人形ではない。
魂など宿るべくもない、ただのビスクドール。
でも、写真を元に作られたこの少女人形は、素晴しい出来栄えだった。
だって。痛いほどに、この人形は僕の胸を掻きむしる。
僕は、寄り添う2体の人形を見つめた。
僕はどんな絶望、あるいは理由があったとしても、命を捨てるほど愚かなことはないと思っている。
命あるものにとって“生きる”ということは、他のあらゆる理由・意味を退けるに価する絶対的な価値を持つ。
当たり前の話だ。すべては生きていればこそ、だ。
命が尽きてしまったら“無”じゃないか。
………………。
でも、その一方で。
自分が最も尊いと思うものにすべてを捧げる。
そんな生き方を羨ましくも思った。
人形たちは今、幸せだろうか。
愛する者の側にいられて。
…………………。
………バカバカしい。
人形が幸せなど感じるわけがない。
精霊人形のウィルには、再び命が宿る可能性がある。
記憶、感情、人格…今はすべてが止まっているにしても、いわゆる“ウィルの心”とでも言うべきものは、その器に留まっている。
そして疑似魂も。
解放された人形の魂がどうなっているのかはわからないが、少なくとも確実に“使用可能”な疑似魂は2つ現存し、2体の精霊人形を生かしているのだ。
もしもこのうちの1つがウィルの器に宿れば。
ウィルは再び目覚め。
彼の意志とは一切無関係に、彼は生を強要されるだろう。
すべての生命が、自分以外の何者かによって命が授けられているように。
だけど。
この“アストリッド”は、人の形をした、ただのモノだ。
その器にあたたかい臓腑はなく。
あるのは乾ききった空洞。
あるのは、そこに心があるならばと思う、僕の心だけだ。
………………。
…………でも。
ガラスの瞳も。
陶器の肌も。
見知らぬ人間のものだった髪も。
僕の目に見え、僕の手で触れることのできる、まぎれもない現実だった。
……………ああ。
ここはドールハウスだ。
僕はもう明日には旅立つ。
いつまでも感傷にだけ浸っているわけにはいかないのだ。
僕は生きている。
生きるとは、時間の流れの中に身を置くということだ。
そして時間は、同じであり続けることを許してはくれない。時々刻々、新しい“課題”を突きつけ、僕たちに変わることを要求し続ける。
変化は不可避なのだ。この肉の器に、命、ある限り。
………………。
でも。
ここは時の止まった人形の家。命なき者の住まう場所。
生ある者には、絶対なる支配者として君臨する“時間”という名の神も、この家の主たちには、音もなく降り積もることしかできないだろう。
ただ、無数の塵となって。
『人形と解放』編(ひとつめのおはなし)W:ドールハウスVer. END(2)